人間やめますか?

 

DOPESICK アメリカを蝕むオピオイド危機

DOPESICK アメリカを蝕むオピオイド危機

 

 2015年、プリンストン大学のアン・ケースとアンガス・ディートンの二人のエコノミストが、最初の警鐘を鳴らした。……彼らの衝撃的な分析によって、1999年から2013年の間、他の先進国で成人の死亡率が軒並み下がる中、アメリカの白人の死亡率だけが毎年0.5パーセントずつ上昇していることが明らかになった。ディートンはワシントン・ポスト紙に「毎年、本来死ぬ必要がない50万人が死亡している」と語り、その原因は自殺とアルコールに起因する肝臓病と主にオピオイドによる薬物依存症にあると指摘した。二人はそれを「絶望病」と名づけた。ディートンとケースのデータは薬物の過剰摂取死だけを対象としたものではなかったが、その結論は、中年白人の著しい死亡率の増加の背景にはオピオイド依存症があり、それが長年右肩上がりで伸びてきた平均寿命がここに来て悪化に転じている主たる原因である、というものだった。

 

 そもそもはペイン・コントロールの救世主のはずだった。慢性痛に対して持続的かつ強い効力を発揮しつつも、それでいて依存症の発生率は1パーセントにも満たない、そう福音を触れて回る製薬企業の営業担当に丸め込まれた医師たちはまさか、「2週間分のオキシコドンかヒドロコドンを処方して患者を帰宅させるという、当時としては定番となっていた医療行為が、2017年までに生産性の低下と、医療コスト、社会保障費、教育費、警察を始めとする法執行コストの増加など総額で1兆ドル(約110兆円)を越える財政負担を生むことになるとは想像すらできなかった」。

 ほんの一枚の処方箋が生み出したアメリカの「未来」、「一般人にとって『未来』という言葉は平均して4.7年先のことを意味しているのに対し、依存症者にとっての未来はわずか9日先のこと」。

 

ダメ。ゼッタイ。Just Say No」に蝕まれた人々にとって依存症ホルダー治癒されるべき患者ではなく罰せられるべき犯罪者、しかし現実には、「逮捕するだけでは麻薬問題は解決できない!」。

 ところがこの頑迷な「人間やめますか?」ビリーバーは、いかに数多のリサーチが証明しようとも、断薬治療の無効性に理解を示そうとはしない。ゼロにはできない、ただし限りなくゼロに近づけることはできる、そんな薬物維持療法の提言などましてや聞き入れようはずもない。

 そして起きることと言えば例えば注射器を使い回した挙句のHIVや肝炎の蔓延。治療を続行する意志がいくら当人にあったところで、再就職すらままならないのだから、料金をまかなうことなどできやしない。刑務所費用や社会生産性等を勘案すれば、公的扶助を差し出した方がかえってコストパフォーマンスに秀でていることがいかに示されようとも、彼らは耳を傾けようともしない。その結末は明確だ。

「食べていくためには人から奪うか、麻薬を売買するか売春するしかありません。……すべては犯罪者が再び犯罪に戻るように設計されています」。

 

 そもそもオピオイドが鎮痛薬として生み出された、という点が何もかもを示唆している。

 現実があまりに痛すぎる。

 本書が描き出すのは、アパラチアに端を発するラスト・ベルトの惨状。産業が枯渇した地に残ったものと言えば、肉体的かつ精神的な痛みと、それを束の間忘れるためのクスリだけ。ギャンブルに走ろうが、アルコールに走ろうが、オピオイドゲートウェイにヘロインに走ろうが、すべては同じこと、つまり原因としてのこの痛すぎるリアルをどうにかしない限り、人々はそれを忘れさせてくれる何かしらに依存することをやめられない。自己責任をがなり立てたところで、この痛みを散らすことなど決してできやしない、それどころか、リスクの内面化によって事態はますます悪化の一途をたどる。

 その意味において、本書において扱われるものは決して薬物依存にまつわる対岸の火事では済まない。黙殺された地方部に端を発しやがて都市をも飲み込んでいく、オピオイドの浸潤が分断の拡散と軌を一にすることは決して偶然ではない。より痛い誰かを晒すことで辛うじての慰めを得る、既に人間であることをやめたノー・トレランスの狂気と訣別しないことには、この惨劇は手を変え品を変え「未来」にも寸分違わず繰り返される。

「あなたに言っておく。7回どころか770倍までも赦しなさい」(マタイによる福音書18章22節)。これは決してきれいごとではない、そうするよりほか道などない。