死が二人を分かつまで

 

「私」こと剣持麗子は大手ロー・ファーム勤務の28歳、冒頭、彼氏からプロポーズの婚約指輪を渡されるも、そのみすぼらしさに不貞腐れて言い放つ。

「何が何でも、欲しいものは欲しい。それが人間ってもんでしょ。お金がないなら、内臓でも何でも売って、お金を作ってちょうだい」。

 そうして席を立つも、どこかわびしさがこみ上げる。イケメンに癒されたい、と学生時代にごく短期間付き合った森川栄治を思い出し、何の気なしにメールを送る。

 それから数日、ようやく届いた返信は彼自身ではなく、身の回りの世話をしていたと自称する人物によるもの、文面曰く、奇しくもメールを宛てた前日に彼が若くして他界した、という。

 詳細を把握すべく共通の友人の篠田と連絡を取った「私」は、そこではじめて栄治が大製薬会社の御曹司であったことを告げられる。そして同時に、相応の株式を保有して亡くなっていったそんな彼の、いかにも奇妙な遺言の存在が死後になって明らかにされたことも知る。

一、僕の全財産は、僕を殺した犯人に譲る。

一、犯人の特定方法については、別途、村山弁護士に託した第二遺言に従うこと。

一、死後、三カ月以内に犯人が特定できない場合、僕の遺産はすべて国庫に帰属させる。

一、僕が何者かの作為によらず死に至った場合も、僕の遺産はすべて国庫に帰属させる。

 ところが篠田の言うことには、あくまで栄治はインフルエンザによって亡くなっている。そして篠田はさらに続ける。

「それがね。栄治が亡くなる一週間前に、僕は栄治と会っているんだ。そしてそのとき、僕はインフルエンザの治りたてだった。どうかな。僕は60億円、貰えるだろうか?」

 

 このギミックは面白い、思わず唸らされる。

 自身を殺めた真犯人の認定にあたって、警察や司法による捜査を栄治はその要件とはしなかった。あくまで彼が指名していた一族企業の役員3人に認めさせさえすればいい。

 この点に弁護士である「私」は目をつける。

 ステークホルダーである彼らに向けて説得すべきは死をめぐるファクトではない。果たして誰を真犯人とすることが、すなわち相続人とすることが、あなた方とそして我がクライアントの双方にとってのウィンウィン関係を構築することにつながるだろうか、と。2+2=4という真実の究明は彼らを必ずしも幸福にしない、対して、2+2=5を押し切ることで各人の利得が最適化されるのならば、彼らがその舟に乗り込まぬべき理由はひとつとしてない。そして状況が変われば、その都度自在に2+27にも3にも26にも捻じ曲げてみせる、そんなアクロバットにどうして魅せられずにいられるだろうか。

 世に遍く訴訟とて同じこと、法廷において追求されるべきは真実でも社会的衡平でもなく、あくまで自らの顧客の利益に過ぎない。その原理をミステリーのフィールドに持ち込む。

 謎解きというゲームに乗らなければいけないなんて誰が決めた? 真犯人なんてでっち上げてしまえばいいではないか、それが利益になるのなら。

 ――というルール・メイキングを貫徹してくれれば、少なくとも私にとってはスリリングだったのだけれども。

 

 ミステリーってそういうジャンルでしたっけ、というそもそも論はさておいて、読中終始どうにも気になって仕方のなかったことがある。

 それは「私」という人物造形の甘さである。

 冒頭から、例の婚約指輪をめぐってまくし立てる。カルティエのソリテールリング、お値段ざっと40万円、ブライダル市場平均そのまま。こういう点に注意を走らせる人間は『有閑階級の理論』そのまま、遡ってディナーの席で出されたワインやシャンパンのヴィンテージや価格にも言及せずにはいられないだろうし――そして気取りすかして「デザート」ではなくデセールとぬかしたりもするだろう――、例えば「私はワンピースに高級なショートブーツを履いていた」などという言い方も決してしない。自分の身につけているアイテムのいちいちについて、ステータス・シンボルの記号として必ずや具体的なブランドやモデル名を誇示せずにはいられないだろうし、それがデザイナーズなのか、ファクトリーなのか、は「私」のキャラクターを形作る材料にもなることだろう。だからこそ逆に、本書がそうしている通り、暇つぶしという以上の機能を帯びない「大人買いした漫画」のタイトルをいちいち名指す必要はない。なぜならばその表題は「私」のパーソナリティと何らの関係性も持たないから、そしてそうした趣味のひとつも持たないことこそが「私」のパーソナリティとなっているから。

 他の者が身内を指して「おじ様」だとか「お兄ちゃん」などという表現を用いることに「どんなに粧し込んでも拭いきれない幼さ」を読み取れる人間は、出会って間もないビジネス絡みの赤の他人に対して「私」のようにフランクな調子で会話しない、なぜならそこに何の得もないから。いくら高飛車な性格という設定であるとしても、仮にもエリート弁護士である以上、外部の者に対しては慇懃無礼そのものの皮肉たっぷりのフォーマルな口調を貫くものだろう。現代の小説として見てももはや古臭すぎて妥当性を欠いた言い回しではあろうが、語尾が「かしら」や「だわ」や「よ」で塗り固められているあたりも、「私」の設定との著しい乖離を見ずにはいられない。

「自分が本当に欲しいものが何なのか分からないから、いたずらにお金を集めてしまうということは、流石の私も分かっている。ただ自分では、自分に何が必要なのか分からないのだ」。

 徹頭徹尾、拝金主義者のダークヒーローでなぜ悪い? こんなしおらしい紋切り型をはさむことが、不自然につながりすぎた箱庭劇としてのこのフィクションを面白くしてくれているのだろうか。

依頼人を守るために、どうすればいいのだろう」、これ以外の行動指針を「私」は何ら必要としない。

「私」の半径数メートルに決して住まうことのない読者というクライアントにとっては、小説が面白くさえあればそれでいい。

 

 ほんのささいなことだけど。

「蒼白な顔色は、もとの色白と合間って」(p.189)――

 5秒ほどのフリーズを余儀なくされる。

 誤変換なのは明白だけれども、本当に「このミス」とやらの査読は機能しているのだろうか。

 

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