愛と沈黙

 

 1921524日、オセージ族が暮らすオクラホマ州の町グレーホースの住人、モリーバークハートは、3人いる姉妹のひとり、アナ・ブラウンの身に何かあったのではないか不安を覚えていた。1歳と違わない34歳の姉アナは、3日前から姿が見えなくなっていた。……

 3年近く前、すでにモリーは妹のミニーを亡くしていた。死は驚くべき早さで襲いかかり、「特異な消耗性疾患」と医者には診断されたものの、モリーは腑に落ちなかった。妹はまだ27歳で、ずっと健康そのものだった。

「オセージ族登録簿」には、両親と同じく、モリーたち姉妹の名も記されていた。それはつまりオセージ族の一員であるということだった。と同時に、資産家であることも意味していた。1870年代初頭、オセージ族はカンザスの所有地から、オクラホマ北東部の岩だらけの何の価値もなさそうな保留地へと追いやられた。だが数十年後、その土地の下に米国最大の油層があることが判明する。探鉱者が石油を手にいれるには、オセージ族にリース料とロイヤルティを支払わなければならなかった。……オセージ族は一人当たりの資産が世界一多い部族とされた。……

 アナがいなくなったというニュースは、新興の街から街へ、戸口から戸口へ、店から店へと広まった。不安をいっそうかき立てたのは、オセージ族からもうひとり、チャールズ・ホワイトホーンという男が、アナのいなくなる1週間前に失踪していると報道されたことだった。

 

 オクラホマの、あるいは今日とさほど変わるところのないやもしれぬ荒涼とした大地の上、華麗なる原住民セレブリティ・ファミリーから、そのメンバーがひとり、またひとりと、姿を消していく。ある者は銃弾に倒れ、またある者は自宅ごと爆薬に焼かれた。またある者は、自ら密造酒により身を滅ぼした、とされる。1923年の段階で、そのリストには少なくとも24人が名を連ねていた。

 舞台設定を取ればいかにもまがまがしい、にもかかわらず、ミステリーとしてはいささかスリルに欠けざるを得ない。というのも、被疑者の正体がいかにも見え見えなのである。オセージ族の成員が脱落していくことで果たして得をするのは誰なのか、その巨万の富を我が懐にしまい込めるのは誰なのか、そんな古典的な問い立てをもってあっさりと解かれてしまう程度の謎しかこの連続殺人には残されていないのだから。

 当時、アメリカ政府により「オセージ族の多くは『無能』と見なされ、地域の白人を後見人につけられ、支出のすべてを、街角の店で買った練り歯磨きに至るまで監督され、許可を得ることが義務づけられた。……たいていの場合、後見人はオセージ郡の著名な白人住民の中から選ばれた」。

 今となっては考えてみるまでもない、ということもない。まず間違いなく、当時においてすらもそうだった。警察も保安官も、あるいは市井の誰しもが、その主犯格には気づいていた。しかし、ローカルに根を張る彼らは、「ほぼ全員が抱いている『殺される』恐怖」を理由に、誰しもが素知らぬ顔を決め込んだ。あるいは動かぬ証拠とともに法廷に送り出してすら、何をされるとも知れない陪審員のおののきを止めることはできなかっただろう。

 

 それでもなお事件の解決を望むならば、アウトサイダーの手に委ねるしかない、州を超えた連邦規模の捜査局BOIの手に委ねるしかない。間もなくFBIとの呼称を与えられることとなるこの組織にとって、まさに「オセージ・ヒルズの惨劇」は試金石となった。

 当時既に若くしてその長の地位にあったのが、かのJ.エドガー・フーヴァーだった。約半世紀にもわたりトップの座に収まり続けた、唯一死をもってその絶大なる力を剥ぎ取られるところとなったこの不世出のアンタッチャブルは、大統領すらも赤子の手をひねるがごとくあしらってみせるその権謀術数をもって今日では専ら知られている。

 しかし彼は、ことこの真相究明においては、少なくとも一点絶妙なるタクトをふるってみせた。つまり、オクラホマの地にトム・ホワイトという逸材を送り出した、というその決断によって。

 陰湿を極めたこの舞台にあって、この捜査官はどこまでも「度を越したバカ正直」だった。

 その人柄を証明するエピソードが紹介される。

 事件が決着を見て間もなく、刑務所長に転身した彼はある日、逃亡を図る囚人たちによって人質としてさらわれる。やがて逃げ込んだ一軒の農家で、その家族の娘が脱出を図る。脱獄犯からすかさず彼女へと向けられた散弾銃に身を挺し投げ出し、ホワイトは瀕死の重傷を負う。そればかりではない。やがて職務へと復帰した彼について、その逃亡犯のひとりが証言している。

「笑えるのは、ムショに戻っても、おれたちに手をあげるやつがひとりもいなかったってことだ。ホワイト所長はただ者じゃない。きつく命令してたんだ。『こいつらにけっして手をあげるな、放っておけ。ほかの囚人と同じように扱え』って。こうも言ってた。『さもないと、おまえたち自身がこの中に入るはめになるぞ』」。

 自らの命を奪われかけてすら、トム・ホワイトは「度を越したバカ正直」であり続けた、社会正義に奉仕し続けた。

 その地に住まう誰しもを支配した私的恐怖心を克服させたのは、彼によって示された公僕の公僕たる所以だった。

 

 本書は教える、人の支配の惨めさを、法の支配の気高さを。

 かのJ.エドガーの部下を通じてそんな教訓を得るというのだから、いかにも歴史は皮肉と皮肉でできている。

 

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