ハンガリー狂詩曲

 

 1965年の小島信夫は、妻の米兵との不倫を契機に崩壊していく一家族に仮託して、ポスト戦後のアメリカ的なるものの浸潤に伴ってキャンセルされていく日本社会、あるいはその変化に対応できない男性原理の惨めな失墜を描き出してみせた。

 ミクロな箱庭の変容に大文字の社会の変容をトレースさせてみせる、少なくともその一点において『抱擁家族』をめぐる記憶は、『あなたの燃える左手で』に重ならずにはいない。

 

 この作品が表現するのも一見すれば再生医療の未来。これまでの医療といえば、「体の病んだ部分を切除して本体が健やかになること、それを根治療法としてきた」。しかしこれより先、「医療は切断的治療から統合的治療に向かう」。再生技術を通じて一度切り落としたパーツを新たに補充してつなぎ直す、その手法が新たなる外科の玉座に必ずや収まろう。

 しかしその移植片が、クローニングに由来しようともiPS細胞的なるものに由来しようとも、それは「ただ同じDNAを持っただけの、研究室育ちの全く別の」他者にすぎない。「今までの医療が、肥大した自我を守るために病気になった体の部分部分を切り落としてきたのだとすれば、移植は他者の一部を受け入れて自分の自我を削ぎ落とすものであるかもしれなかった」。

 本書の主人公アサトは、骨肉腫との診断から一度は左手の切断を余儀なくされるも、間もなく全くの誤診であったことを知らされる。内視鏡技師という生業をかくして離脱し落胆に暮れる彼のもとに、医師ゾルタンが持ちかけたのが再接合術だった。遺体から取り出した手首をつなぎ直すことで、アサトはめでたく左手を回復する。ゾルタンはほくそ笑みを禁じ得ない、「今回は白人の肉体労働者の手を、アジア人の事務員の腕に繋いだ。このアジア人にどのような変化が起きるか、それが楽しみだった」。

 単に移植手術のドキュメンタリーを描き出すことに本書はさして注力しない。個人の肉体というミクロな境界線をめぐるやり取りが、マクロな現代史のメタファーに過ぎないことをその文体は何ら隠そうとはしない。

 物語の舞台からしハンガリーである。「2回の世界大戦を経て、……帝国時代に統治していた領土の5分の3と国民1500万人を周囲の国に奪われた」、そんな国である。そして東に隣接するのはいみじくもあのウクライナ、その領土の一部は失われし王国に属した過去を持つ。「ウクライナ西端に住むハンガリー系住民たちは国籍がウクライナであれど、ハンガリー人に間違いなかった。そのことを忘れさせないようにハンガリー政府は彼らに市民権と選挙権を与えている」。

 なおかつ配偶者ハンナの国籍はウクライナ、ましてやその実家はクリミアと来ている。他の人物にも同様の背景は描き込まれる。例えばアサトのリハビリを担当するスタッフは台湾系フィンランド人、日本とロシアによる侵略の歴史をまさか意図していないはずがない。

 

「腕からの移植はままあるが、手だけの移植は世界でも極めて数が少なくてね」

「技術的に難しいのかい?」

「いや、リスキーなのさ。移植後の拒否反応が腕より起こりやすくてね」

「どうして? 手だけのほうが腕からよりも移植する量は少ないのに」

「あはは、これは面白い意見だ。それは島国的、いや、ヤパァナ的思考だな」

 ゾルタンは胸を大きく張ってから、

「いいかい。アサト、戦争というのはね、ふふふ」

 ご機嫌な声を漏らして一笑いする。

「歴史を振り返ればわかるはずだ。大国の隣に小国があれば、どうなる? すぐにその小国は征服されるだろう。基本的に征服は大国と小国の間で起きるのさ。大国同士がぶつかってどちらかが征服される、なんてのはそうそうない。近代に限れば、大国同士が真正面から戦ったことすら一度もないんだ。なぜなら、お互い壊滅的なダメージを負うとわかってるからさ」

「じゃあ、」

「そうさ、移植片の量が多いほど、拒否反応は起こりにくくなるのさ。逆に指一本だけを移植した日には、拒否反応で一瞬のうちに指は焼け落ちる」

 

 アサトにとっても、たかが左手のはずだった。両親に言わせれば、同じ悪性腫瘍でも内臓を蝕まれることに比べればわけもなかった。終いには、「手と足だったら足のほうがきつい、利き手じゃない手が一番ましだな、と呟いてくる始末だった」。パートナーの言うことには、「手が二個あるもので良かったわ」。職にしても同じ勤務先の病院内で技師から事務に回されるだけ、おそらくはそこまで収入が劇的に目減りすることもない。

 同じように、ウクライナにとっても、たかがクリミアのはずだった。

 友人のウクライナ人とキーウに逃れた義父のもとを訪ねた際に会話する。

「だって、クリミアって何十年か前はソ連のものやったからさ。だから、ロシア人とかさ、クリミアに住んでたロシア系の住民はさ、この数十年の間、ずっとおれらのものやのにって心の底で思ってたんやろうなって。……だから、お互いさまなんかなっていうのがあって、腹立ったりとかなかった。

 でもな、VTRで、ほらクリミアのさ、テオドルの家から5分くらいのところの駅前通りにある、エレーナのお母さんがやってたカフェあったの覚えてる?……

 そこがな、テレビの取材受けてて。そのカフェ、まったく同じ店構えのまんまで、なんなら、ソファも、テレビもそのまま、けど、まったく違う人がコーヒーだしてた。……その瞬間、あれ、おれらのもんやぞって、ものすごい怒りがこみあげてきて。あんなに憎んだことないってくらい全身がぶわーってなって、気がついたらテレビ、ぶん殴ってた」。

 同じ怒りをハンナも共有していたに違いない。腐り切った政府と人民に見切りをつけて隣国での暮らしを選んだはずだったのに、それでもなお、祖国は祖国であり続けた。

 そうしていつしか「隠れ民兵」を担うようになった彼女は、生きて捕虜の辱めを受けず、と投降を装いつつ自ら爆弾を炸裂させて敵を巻き添えにする最後を選んだ。

 

 もっとも、アサトはその事実を直視できずにいた。その分裂した己のメタファーもまた、左手に託される。

 とうに失われているにもかかわらずまだそこにあるはず、と幻肢痛にのたうち回るアサトを紛らわせたのはごくシンプルなミラー療法だった。鏡の間仕切りで二つにセパレートされた箱に右手を突っ込みその様子をのぞき込むと、あたかもそこに左手がまだ存在しているかのように映る。何ひとつ失われていない、変わっていない、その視覚情報が脳の錯覚を引き起こし、疼きは束の間緩和された。

 彼女をめぐる左手の記憶は、限りなくミラーボックスに似ていた。例えばかさついた彼女の手がたちまちにしてアサトの手の脂で癒される、そんなマイダスタッチの記憶。彼女が言うには、「日本人の天然クリームがわたしには合っている」。だから手術が迫ってすらハンナはあっけらかんと言ってのけた、「左手を切断することになったら、わたしの右手はガサガサのままで治らへんわ」。

 その喪失感も、移植によって穴埋めされるはずだった。「他者の一部を受け入れて自分の自我を削ぎ落とす」、そうしてミラーの中のハンナの幻影はアサトの中でじきに風化していくはずだった。しかし彼は、依然として「自分の自我」に固執し続けた。彼はあくまで、「ぼんやりとした領海に囲まれて国境を知らず、似た者だけで排他的に暮らしながらも、自分たちは心優しい人種と思いんでいる無知で幼稚な国民」の肖像であり続けた。彼はハンナの死というファクトから目を逸らし続けた。

 

 やがて燃えるような拒絶反応をもって否応なしに体内に住まう他者を知るところとなった彼の前に現れたのは、やはりハンナだった。

 うなされながら彼は思う、「ハンナの左手を移植したのだ」と。この腫れ上がった手がハンナのものであるならば、安置所で見た「あの腹が吹き飛んだ遺体もハンナということになる」。彼は歓喜の瞬間に辿り着く。「ハンナは今も生きている。自爆で千切れ千切れになったからといって、彼女はいなくなったわけではない。ここに生きている」。

 ところが恍惚に代わって流れ出したのは、まるで見覚えのない風景の数々だった。「自分以外の人間の熱い口臭がした。煙草と香辛料と胃液の混じったものだった。一息ごとに、他の男の口臭が口内いっぱいにたちこめていく。胸の粒だった感触は熱砂のように細かく燃えて、浮かび上がる画像に惹きつけられて左手に流れ込んだ」。

 こうしてアサトに医師のことばを受容するそのときが訪れる。「これはウクライナ人の、君の妻の手じゃない。教えてやろう、これはポーランド人の男の手だ。ハンナの手じゃあないぞ!」と。ハンナの死を認めた彼には「もうかつてのような幻肢痛は起こらんだろう」。

 

 もはや大演説と呼んで差し支えなかろうほどのマクロな寓意を展開し続けたこの小説が、パーソナルな小文字の物語をもってクライマックスを迎える。

 いやむしろ、これでいい。竜頭蛇尾とは的外れ、これこそが、現代の世界情勢への見事な応答なのだ。ロシアも同じ、イスラエルも同じ、メガロマニアックに肥大した自我が立ち上げた侵略戦争を終わらせるには、各人が「他者の一部を受け入れて自分の自我を削ぎ落とす」よりほかに道はない、その民衆の総意をもって国家とするよりほかに道はない。

 かつてトマス・ホッブズは「各人の各人に対する戦争」なるテーゼを立ち上げた。この企てにあたって、想像してごらん、と彼は呼びかけた。もし人々の「すべてを威圧しておく共通の権力なしに、生活しているときには、かれらは戦争と呼ばれている状態にあ」るだろう、と。国家なるリヴァイアサンの存在を読者各人の脳内の箱庭に還元するこのパラダイム・シフトをもって、ホッブズは近代政治思想の扉を開いた。ともに平和裡に暮らすための共同体の生成原理を導いたこの想像なる行為は反面、誇大妄想狂向けの止めどなきインフレーションの成れの果てとしての国家をも創成した。

 そんな大きな物語の黄昏時に、この小説は書かれ、そして読まれる。

ヨブ記」に書かれた巨大怪獣が天に召された-1.0の焼け跡で何ができる? 奇しくもここでもホッブズの思考実験が改めて意味をなす。だからこそ人々は止むことを知らぬ不毛な争いの手を止めて、互いに手を取り合ったのではないか、と。

 スマホにしがみつくためじゃない、キーボードを打つためじゃない、その手はつなぐためにある。

 

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