Don't Know You

 

 人は誰でも、頭の中にアーモンドを2つ持っている。それは耳の裏側から頭の奥深くにかけてのどこかに、しっかりと埋め込まれている。大きさも、見た目もちょうどアーモンドみたいだ。アーモンドという意味のラテン語や漢語から、「アミグダラ」とか「扁桃体」と呼ばれている。

 外部から刺激があると、アーモンドに赤信号が灯る。刺激の性質によって、あなたは恐怖を覚えたり気持ち悪さを感じたりして、そこから好きとか嫌いとかの感情が生まれる。

 ところが僕の頭の中のアーモンドは、どこかが壊れているみたいなのだ。刺激が与えられても、赤信号がうまく灯らない。だから僕は、周りの人たちがどうして笑うのか、泣くのかがよくわからない。喜びも悲しみも、愛も恐怖も、僕にはほとんど感じられないのだ。感情という単語も、共感という言葉も、僕にはただ実感の伴わない文字の組み合わせに過ぎない。

 

 そして奇しくもクリスマス・イヴにして、「僕」の誕生日でもあった「その日、1人が怪我をし、6人が死んだ。まず、母さんとばあちゃん。次に、男を止めに入った大学生。それから、聖歌隊の行進の先頭に立っていた50代のおじさん2人と警察官1人。そして最後は、その男自身だった。彼は、正気の沙汰ではないこの殺傷事件の最後の対象に自らを選んだ。自分の胸深くナイフを突き刺した男は、他の犠牲者たちと同じように、救急車が到着する前に息絶えた。僕は、そのすべてのことが目の前で繰り広げられるのを、ただ見つめているだけだった。

 いつものように、無表情で」。

 

 ざくっと言えば、現代韓国版『アルジャーノンに花束を』。

 もっともこの「僕」にどうやら欠けているらしいアーモンドの機能が補完されるのは、ダニエル・キースにおけるような外科手術によってではない。彼はあくまで周囲との交流を通じて、そのチャンネルを習得していく。

「外を歩くときはいつも、母さんが僕の手をぎゅっと握っていたことを覚えている。母さんは、絶対に僕の手を放さなかった。ときどき痛くて僕がそれとなく力を緩めると、母さんは横目で睨んで、しっかり握りなさいと言った。私たちは家族だから、手を繋いで歩かなくちゃいけないんだと。反対側の手は、ばあちゃんに握られていた。僕は、誰からも捨てられたことがない。僕の頭は出来損ないだったかもしれないけれど、魂まで荒んでしまわなかったのは、両側から僕の手を握る、2つの手のぬくもりのおかげだった」。

 この営みは、すぐれて可塑的な性質を示さずにはいない。乳幼児期から笑顔すら知らなかった「怪物」としての「僕」が「2つの手のぬくもり」を通じて徐々にart of lovingをインストールしていく。内発性などというフィクションを媒介せずとも愛は学べる。愛なんて、生まれるのではなく作られる。「僕」におけるラーニングの証明こそがすなわち、「2つの手のぬくもり」の発見だった。

 

 しかし、と一読者としてはまるで腑に落ちない。なぜに愛に気づいてしまった「僕」は、自分が生き残った事実に葛藤しないのだろうか、と。ましてや祖母は自身を楯にして孫である「僕」を守り抜いて、そして犠牲となった。現実のアレクシサイミアの症例はひとまず脇に置くにしても、この作品内の論理構造に従えば、メメント・モリを経験することで「僕は初めて人間にな」る。そうして一度目覚めてしまった「僕」は、にもかかわらずついぞ良心の呵責に苛まれる瞬間を知らぬまま閉じていく。「恐怖心を知らない」、その「僕」の無二の特性によってあの日彼女たちのために命を差し出すことができたなら、そんな後悔に蝕まれることが「2つの手のぬくもり」をめぐるご都合主義だらけのこの成長物語にはなぜか織り込まれることがない。

 ドストエフスキー『白痴』のムイシュキンは、そのあまりの無垢ゆえにこそ、愛した女の屍とそしてその殺害者との同居生活を一度は目指す。たとえ束の間であろうとも彼においてそれが可能なのは、まさしく彼が穢れを知らず美し過ぎて自意識の苦悶を知らないから。かくしてコミュニケーション不可能な存在へと再び戻ってしまったこの「白痴」には、精神病院の他にいかなる居場所をも与えられることはない。

 別にこうしたテーマは、特別な障害云々を設定せずとも、誰しもが現に経験する話である。すべて子どもなんてよく言えばピュア、ストレートに言えばただのバカ、幼児期における無邪気という名の黒歴史の数々をめぐる記憶が呼び起こされて悶絶する、こんなことは誰でも身に覚えがあるだろう。そんなフラッシュ・バックにのたうち回ることをもって人はたぶん成長と呼ぶ。

 

 透明なのだ、「僕」を指してそう言えて言えないことはない。

 確かに「僕」は透明感に満ちている、ある種のクラスターが共通して湛えるあの透明感に。過去のことをグジグジ言うのはもうやめて、未来だけを見据えていきましょう、そう屈託のない瞳で公言して憚らない輩とまるで同種の、つまりは学習機能の一切が放棄されたヒトですらない何かに固有の、あの透明感に。

 

「アーモンド」の欠如は、想定問答を丸暗記することで補ってしまえばいい、それが母の見出したソリューションだった。もっとも「僕」は、学校の集団生活の中でいつしか、自ずと処世術をインストールすることに成功する。つまり、「大抵の場合は、ただ黙っているだけで十分だった。……沈黙はやはり金だった。その代わり、『ありがとう』と『ごめんなさい』は、口癖のように言い続けなければならない。この2つは、多くの困難な状況を乗り越えさせてくれる魔法の言葉だった」。

 奇しくも「僕」はこの「魔法の言葉」を聞くこととなる。

 それはとある人物のいまわの際でのこと、枕元で「ありがとうという言葉をごめんねという言葉と交互に10回くらい言って、また泣いた」。

 このシーンがいみじくも暴露する、決してスピーチレスなわけではない、すべて生身の人間において交わされるコミュニケーションなんてそんなものでしかない。「ありがとう」、「ごめんなさい」、botで書ける、ペッパーでも言える、スクリプト化にも及ばない、この世に遍く声なんてその程度の、なくてもいい、いや、ない方がいい量産品ノイズでしかない。そんな貧弱なことばしか持たない有象無象になること、浅はかな感動ポルノを消費するだけの存在になること、「人間にな」ることにそれ以上の含意などない。

 

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