マネーの虎

 

 世界ではこれまでもすごいことが起こってきたが、死ほど手ごわい敵がいただろうか。数十億ドルの金が用意されていて、政界や経済界の実力者たちが成り行きを見守っている。だが、本当にここから何が生まれるのだろうか。〔クレイグ・〕ベンダーは本当に現代医学に革命を起こすことができるのだろうか。〔ロバート・〕ハリリの幹細胞は体を若返らせることができるのだろうか。コンピューター技術の飛躍的な進歩が人間を救うという〔レイモンド・〕カーツワイルの持論は正しいのだろうか。そして、〔アーサー・〕レビンソンのチームはいつの日にか生物の生と死のパラダイムシフトを実現させることができるのだろうか。ゲノム学、遺伝子学、分子生物学ビッグデータナノテクノロジー機械学習の急速な進歩をみれば、実現しないとも言い切れないのではないか。もしかすると、人間は本当に死神の手からうまく逃れられるかもしれない。悩み苦しんだり、神話や伝説を探し回る必要はない。宗教や哲学的な瞑想もいらない。もちろん、クロストレーナーもステップマシンもチンキ剤も、錬金術師のまじない薬が入ったつぼもいらない。実現のために必要なのは、正真正銘本物の科学だ。

 

 1899年の段階で、アメリカの白人の平均寿命は48歳、黒人のそれは34歳だった。当時における死因のトップといえば、結核だった。公衆衛生の改善、伝染病からの隔離、抗生物質やワクチンの開発、そうした要素が合わさった結果、そのおよそ半世紀後には、その平均余命は26年も引き延ばされた。

 もっとも延びたら延びたで、新たな死因が台頭したに過ぎなかった。例えばガン、例えば心臓疾患、人生50年の時代ならばそれらの襲来を待つこともなく刈り取られていた命が、老化という別なる死神を召喚した。そして本書に登場するバスターズたちは何とも恐れ知らずにも、この死神そのものを退治してみせると謳うのである。

 とある試算が導くところでは、ガンの撲滅を達成したところで延びる平均余命はわずか2.8年でしかない。所詮、術式の改良や投薬の新規開発など事後的な対症療法に過ぎない。かかってからではもう遅い、だから予防医療こそが重要だ、それくらいの説法は巷の街医者にだって唱えることができる。しかし本書の登場人物が訴えるのは、今さらながらの運動や食事の重要性という程度のうんちく話ではない。ITとの融合、ゲノム・サイエンスの発達……そうした科学を注ぎ込むことで、老化を遅らせるどころか、無化してしまおうというのである。

 

 これくらいのごたくならば、シリコンバレーあたりで起業を目指す自称ネクスト・スティーヴ・ジョブズどもの口からも散々聞かされることがあるかもしれない。スタートアップの資金集めにおいて、死なない死なない詐欺が老い先短い年寄りにどれほど響くかなんて、想像するだに微笑を禁じることができない。

 しかし、本書の登場人物は十把一絡げの若造どもとは圧倒的に訳が違う。ある者は現在もアップルの会長を務める遺伝子工学の研究者、ある者はヒトゲノムの解読を導いた超重要人物、またある者はシンギュラリティの提唱者……そのいずれもが既に富と名誉を十二分に手にしており、今さら期待値バブルで焼け太りを図るインセンティヴに極めて乏しい人々と来ている。そして驚くべきことに、ある会社は既にグーグルから数億ドル単位の調達を済ませてもいる。

 本書は何の最先端科学を教えてくれることもない、ただし投資を募る起業家たちのプレゼン現場をエンタメ形式でのぞき見くらいはさせてくれる。既存の医療の何もかもを書き換えてしまうかもしれないこれらベンチャーに、さてあなたならいくら投資できますか。

 

 先端医療と書いてあてずっぽと読む。

 言っても、そんな夢物語の到来にはおよそ程遠い場所に身を置いていることくらい、誰しもが知っている。「例えば関節炎や膝の痛み、臓器疾患を幹細胞で治療できるようにな」ってなどいないし、「主にヒトゲノム学から得られた知見を活かして、がんや脳の機能低下に的を絞った新たな治療法が出てくる」気配もなければ、「進化が昔から私たちに押しつけてきた老化をくい止め、さらには若返らせるような発見がなされる」実証的な何らの裏打ちも得られてはいない。クローン羊のドリーが誕生したのは1996年、iPS細胞の発表は2006年、ところが今日現在に至るまで、生命倫理とやらが阻害しているわけでもなかろうに、動物実験レベルですらこうした知見が実用化にこぎつける様子は微塵も見られない。新型コロナにしても、既存の疫学的蓄積に比して、先端ITがどれほどの寄与をもたらしてくれただろう。本書で紹介される実践例にしても、少しハイグレードで――そしてもちろんハイコストな――人間ドックにマーケティング・ポエムをまとわせた程度の代物に過ぎない。

 しかし、かつて錬金術alchemyから化学chemistryが生まれたように、不老不死を欲してやまないこの現代版賢者の石の探求作業が、空虚で無益な砂上の楼閣として崩れ去って終わることもおそらくはない。

 例えばその糸口は人工知能の中にある。例えばレイモンド・カーツワイルが謳うのは、「ナノテクノロジーから生まれた細胞サイズのナノボット……は動脈を掃除し、筋肉を強化し、各種器官の能力を高めながら、同時にごく普通の人間の脳がクラウドの広大な脳空間にアクセスできるようにする」、そんな未来。それが実現した暁には、「もし本人がいきなり死んでしまったとしても、保存されたバックアップ情報をダウンロードすれば、体と心のあらゆる情報を持ったクローンコピーを作ることができる」。

 いや、そこまで賢明な「ナノボット」とやらが本当に産み落とされるとするならば、その演算能力はたちまちにしてヒトという初期設定バグを排除した方がはるかに効率的にシステムを運用できることを導出するだろう。彼らには「動脈を掃除し」たり「筋肉を強化」するなどという徒労にリソースを注ぐべき何らのインセンティヴもないのだから。ヒトとかいう低スペックなコンテンツとの共存などという無益なゲームすらチェンジできない頭の悪いAIならば、むしろ何の使い道もない。ゆえに、遠からず訪れるだろうシンギュラリティなるヒトの命日とトレードオフに、人工知能が晴れて不老不死の栄誉に授かる。

 もっとも、そんな勝算しか見えない2045年に全財産をベッドしたところで何のリターンが得られることもない。だから、ノーマネーでフィニッシュです。

 

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