射精責任

 

 上京しても何のいいこともなく、むしろ、どんどん悪くなってゆくのはなぜだろう。故郷に帰っても仕事がないし、東京に出る時に父親とは大喧嘩したから、意地でも帰りたくない。てか、その旅費もない。

 二百万という大金を持って出たはずなのに、六年の歳月に間にすべてなくなった。部屋を借りるための礼金・敷金、冷蔵庫に電子レンジ、ベッドに寝具に鍋や食器。それらを揃え、足りない生活費を補填しているうちに、いつの間にか幻のように消えてしまった。そして今は、貯金ゼロの日々が続く。

 仕事に恵まれない不満、これといった才能がないという劣等感、そして、リキの毎日を暗雲のごとく覆っているのは、大いなる欠乏感だった。金がないということがこんなに心細く、息苦しいとは思わなかった。一度でいいから、金の心配をしないで暮らしてみたい。

 閉店間際のスーパーで安くなった食材を買い漁り、光熱費を削り、徒歩で移動して交通費を倹約し、服は古着屋でしか買わない惨めさ。そんな毎日から、一度でいいから解放されたい。

 職業、派遣の病院事務、来年には契約を切られることがほぼ確定、給与は手取りで14万、29歳独身、容姿は十人並み、資格も学歴もコネもない。

 その女、大石理紀には何もなかった。

 そんなある日のこと、派遣仲間のひとりから割のいいバイトに誘われる。エッグドナー。個人情報を入力して卵子を提供するだけで、「女である自分が、女であること」を商品に換えるだけで、ランクに応じて最低でも50万が受け取れるという。

 審査をパスして呼び出されたクリニックでの面接の席で、リキは新たなビジネスのオファーを受ける。サロゲートマザー。「奥様とは別の女性の卵子と、ご主人の精子を使った受精卵を、卵子を提供してくださった女性の子宮に戻して出産してもらう方法」。その場合には、「最低300万の報酬は出ます。あと、妊娠中の生活費、産後、体力が回復するまでの生活費も出ます。他に、ご夫婦からお礼もあると思います」。不妊のクライアントに容姿が瓜二つであることから、彼女に白羽の矢が立てられたという。

 精子の提供者となる依頼人はかつて一世を風靡したバレエ界のサラブレッド、その配偶者も売れっ子のイラストレーター。不妊治療を続けるも報われることなく年を重ね、サロゲートマザーという選択肢にたどり着く。その彼の言うことには、「持っている人が、持てない人に売ればいいんだ。大いなる人助けだよ」。

 何もかもが対照的な両者の意向はマッチして、1000万にてハンマーは落ちる。

 

 この小説は一貫して妊娠から出産をめぐる自己決定権と非対称性をめぐって綴られる。

 生まれながらにして、リキには選択肢などなかった。「北海道は内陸の、人口五千にも満たない小さな町に生まれると、若い女が食べていくための働き口はほとんどないに等しい。農業か酪農か、農協や役場に勤めるか、海側の町まで出て水産関係の仕事をするか、自分のように介護の仕事に携わるか、あるいは結婚するか、だ」。努力さえすれば名門大学くらいなんとかなっただろう、都会でスキルを身につけるくらいできただろう、だから自己責任じゃないか、世の中にはそんな白々しい戯言を真顔で唱える人もいる。もちろん彼ら量産型日本人は、階級の再生産性や文化資本格差の問題なんてことを理解できるほどの知力をインストールしていない。フルタイム勤務で医療というエッセンシャル・ワークに携わりながらも受け取れる給与は相対的貧困ライン以下、中抜きを焼け太らせるばかりのそんな社会設計の稚拙極まる失敗ですらも、自己責任の一語で彼女は吸収させられる。

 美貌に恵まれたわけでもなく、着飾る余裕もありやしない、そんな生活の中で出会える男のバリエーションにしても限られている。今さらピエール・ブルデューの指摘を待つまでもなく、自由恋愛こそが最も不自由な恋愛形態に他ならない、なぜならば階級間の交流など現実にはほぼ起きやしないから。彼女に行使できる選択の自由といえば、「粗暴で馬鹿で礼儀知らずで、考えることと言えば、己を利することばかり」のクズと、クズと、そしてクズの中から、漠然とクズをピックアップすることくらい。仮に女子力とやらを磨いたところで何が変わることもない。社会格差を冷然と反映したこの選択をもってれっきとした自己決定だと強弁するのならば、まあ、そうなのだろう。

 そんな彼女が、契約の自由を行使してサロゲートマザーの「ビジネス」を引き受ける。代理出産を日本の現行法は認めてはいない、いわば広義の闇バイトには違いない、ただし生殖行為そのものが強盗や殺人のように違法性や公序良俗に抵触しているわけではない。クライアントからリキに課された「プロジェクト」の条件は、単に妊娠と出産だけではなかった。「いつも居場所は承知していたい」、「くれぐれもお酒やタバコなどを嗜まれませんよう、清潔で健康な体を維持されるべく」、これらはぶら下げられたニンジンの引き換えに付帯された、まだ着床すらしていない段階から負わされる「義務」の、ほんの一例に過ぎない。子どもに備えてリキとの間に戸籍上の婚姻関係を結んだにもかかわらず、予め自宅で採取しておいた精子を提供して医院から足早に立ち去っていく彼は、残された彼女が味わうこととなる、例えば排卵誘発剤がもたらす痛みになど耳を傾けようともしない。

 本件の女性雇用主にしても、例えばキャリアパスを阻害されるといった事情から、サロゲートマザーに手を延ばしたわけではない。倫理的な逡巡に悶えながらも、加齢が彼女に他の選択肢を認めなかった。自分自身の肉体でありながら自分の意にはならない、ボディメイクに日々励むダンサーとの見事なコントラストを描く、そんな矛盾がこのキャラクターには投影される。

 バレエ一族のスーパーエリートである彼にしても、本人に言わせれば、ただスター・システムでオートマティカルに運ばれたわけではない。子どもは親を選べない、その枷に生まれながらにはめられつつも、幼き頃より猛練習を積み重ね、食事のひとつにも節制を尽くした、そうした純然たる努力の結晶体として彼は己を定義してやまない。だがしかし、これだけの娯楽が溢れる現代において、ひどくニッチなバレエの世界で大成するために最も重要なことは実のところ、世間が見向きもしないチケットを買ってくれるパトロンをいかに捕まえてくるかに過ぎない。エドガー・ドガが描き出した愛人稼業の昔から、この業界において才能という語彙はマネー・メイキング力以外の何を意味することもない。今日、そんな気前のいいスポンサーなどそうそう転がってなどいないのだから、ほとんどの場合において、パトロンとは血縁者の別称に過ぎない。それなのに、親ガチャを見事制した彼は、自らの生業が興行ごっこでしかないことに気づこうともしない。あくまで独力をもって現状の地位を勝ち取った、そう誇ってやまない。

 登場人物のいずれもが自己決定権という神話に振り回される。そして皮肉にも、巧みにも、舞台となるのは出生をめぐるその場面、どれほど愚鈍であろうとも、未生の胎児に行使し得る自己決定権などひとつとしてないことくらいは分かる、はずだ。

「子供は、子供自身のものだよ」、その命題がいかに白々しいかなんて、誰だって知っている。

 

 男と女を分けるものは、たかだか染色体ひとつに過ぎない(トランスジェンダーはひとまず脇に置く)。しかし、出生へと至るプロセスほどに、この両者の隔絶を訴えるものはふたつとない。

「できそこないの男たち」だの、「すべての男は消耗品である」だのといくら嘯いてみても、そこにおいて割り振られたロールはあまりに軽い。エクスタシーと同時に精液を膣内にぶちまければそれでお役御免である。腹上死のリスクも、性感染症のリスクも、確かにないことはない。しかし所詮、風俗産業やレイプを絶滅させない程度の、言うだけ虚しいリスクにすぎない、ましてや女が背負うリスクに比べれば、受胎できてしまうという条件づけから発生するリスクに比べれば。

「お楽しみの後で、女だけが労苦を背負うのはおかしくないですか? だから、容易にセックスしない、いや、やりたくてもできない女もいるわけでしょう。なのに、〔春画は〕あたかもそんな後の結果なんかないかのように描いている。これは、夢の世界ですよ」。

 そう、ここは「夢の世界」ではない「クソみたいな世の中」で、社会によって規定されるジェンダー・バイアスをどれほど取り除くことができたとしても、染色体由来のこのセックス不均衡が解消されることはたぶんない、そんな「クソみたいな世の中」で、それでもなお、「クソ」の中でも少しだけまともな「クソ」を選ぶくらいの自由はある、「女であること」に散々翻弄されながら、「それでも女はいいよ。女の方が絶対にいい」と誰かとともにシャウトするくらいの自由はある。

 ようこそ、「クソみたいな世の中」へ。

 

 

shutendaru.hatenablog.com

shutendaru.hatenablog.com

shutendaru.hatenablog.com