動物農場

 

 ファッションやブランドと「倫理」がどう結びついているのか。なぜ皮革と高級ファッションブランドは抜きがたい関係にあるのか。そしてその関係に21世紀の倫理がどう反映しているのか。それを考え説明するために本書は書かれた。

 ここ10年余り皮革についてのリサーチをしながら、筆者は日本の皮革業の「ブランド」をどのようにつくりあげられるか考えてきたが、その間に、もっと大きな景色が見えてきた。グローバルなファッションの流れの中に姿を現しつつある21世紀の産業倫理だ。ファッションとつながる現代のポップカルチャーを読み解くことでも、新たな「ファッション倫理」の姿が見えてきた。コロナ禍でかえってその倫理は強調されてきたかのようだ。

 

 王侯貴族がただ一度のパーティーのためだけに贅の限りを凝らしたドレスをまとう、そんな光景が業界の華と讃えられたのも遠い昔、民主化が可能にしたのは、欲しいものがあれば買えばいい、メゾンの扉を叩くために必要なのは権威ではなく金、そんな自由の世界線だった。

 決して手に入らない雲の上のラクシャリーゆえにこそ「ブランド」であれた時代はとうに過ぎ去った。人口に膾炙した記号性ゆえにこそ「ブランド」は今や「ブランド」であれる。見る人が見れば分かる、そんなハイ・コンテクスト、ハイ・クオリティが「ブランド」であれた時代など、有史以来一度として訪れたことはない。すれ違う人がまとうスーツの、何気ない仕立ての良さや意匠になど世の中は気など配らない、羨望などしない。しかし、ヴィトンやグッチやバーバリーのロゴならば、どんなバカにでも見れば分かる。それほどの認知を獲得するためには、街に遍いていなければならない、大量生産できなければならない。稀少性は唯一、プライス・タグによって規定される。

 かつて王室御用達の革製品「ブランド」として鳴らしたプラダを低迷から救い出したのは、ナイロンだった。クラシカルなレザーの愛用者は、どこにでもある化学繊維のみすぼらしさに目を覆わずにはいられなかった。こんなもの、スーパーマーケットで山積みにされているバッグと何が違うのだ、と。しかし市場は熱狂をもって迎え入れた。確かに機能的ではあるかもしれない、しかしそれにしてもありふれている、これが果たして「ブランド」なのか。真相は違った、ありふれているからこそ、時流fashionを表現できたのだ。

 

 ルイ・ヴィトンにしても、つまりは塩化ビニールでコーティングされたウンコ色の何かでしかない。「ブランド」を「ブランド」たらしめるために必要なものとは――つまりは「ストーリー」だった。

 2018年のこと、そのヴィトンのメンズ・セクションのクリエイティヴ・ディレクターにヴァージル・アブローが就任する。自身の立ち上げた「ブランド」、オフ・ホワイトでの功績を買われての抜擢だった。彼は謳った、「有名ブランドの鞄や靴は値が張るからおいそれと手が出にくい。だが、若者でも財布やストラップくらいならなんとかなるだろう」、クールなつまみ食いで差別化を図る、ヒップホップ的サンプリングのアイディアがそのままに導入された。彼は若者に向けて説いた、「『わざわざ』イタリアで織らせた生地と、普通のTシャツの生地がどう違うか肌で感じて欲しい」、と。もっとも着心地の違いなど誰もそこに求めてはいない、そんなものは数回のクリーニングで消え去ってしまうような何かでしかないのだから。ただし、そう、風合いは損なわれようとも、胸の中央に丸出しのロゴは残る。モノグラムは変わらず約束してくれる、「『わざわざ』イタリアで織らせた」というプラシーボを。VALENCIAGAとプリントされてさえいれば、そのTシャツがどれほどペナペナなのかなんて誰も気にも留めない、バレンシアガはバレンシアガなのだ、だってそう書かれているのだから。あるやなしやも定かならぬ真正のクラフトマンシップなどいらない、ただし、クラフトマンシップという「ストーリー」は欲しい、お金がもたらす「ストーリー」は欲しい、「ストーリー」がもたらすお金は欲しい、そして何より「ストーリー」とハッシュタグが担保する、インスタ越しの自己承認が欲しい。

 

 今や価格転嫁できるのは「ストーリー」だけ、品質は何らの訴求力をも生まない。

 海外の同業者からの太鼓判を受けているにもかかわらず、「ジャパニーズ・レザー」の皮なめし職人の口ぶりはいかにも冴えない。

「こういう晴れがましいところで日本の皮革が賞賛されるのは嬉しいです。でも日本に帰ると現実には僕たちのつくった革は買い叩かれ、安い靴売り場などで売られています。デパートは僕らがつくりたい革ではなくて自分たちが欲しい革を、しかもできるだけ安く仕入れられる革を要求してきます」。

 こうした事態に陥る理由は、本書の論理を参照せずとも明らかである。「ストーリー」が欠けているから、「ブランド」作りに失敗しているからに他ならない。

 同様の嘆きが、驚くべきことに自動車の内装用レザーで世界3位のシェアを誇るミドリオートレザーからも飛び出す。「昨今の自動車業界には失望を禁ぜざるを得ないというのだ。日本の自動車業界は天然皮革へのリスペクトを全く失ってしまっているという」。メーカーサイドに言わせれば、「一般の人々は乗っても座席が天然革か合皮か分からない」のだから、「革のシートは安ければ安いほどいい」。彼らは決して「断然運転者の疲れ方が違う」というミドリの訴えに耳を貸そうともしない。もっとも、自動車会社にしてもあくまでカスタマーの声を代弁しているに過ぎない、そんなところには商品価値などないのだ、と。

 これが、今なお「ストーリー」のひとつも生み出せない、価格競争力の他にアピールポイントが何もない、ビジネスとコンシューマーの共犯によって築かれた、国策産業の現在地である。

 

 本書のファッション史を改めて少しだけなぞり直してみる。

 1970年代、「折しも高級ブランドがグローバルマーケットを見据え、従来の『安物の既製品』から、均質的に、大量に生産しうる『高級品』によってブランド化を図ろうとしていた時期」のできごと、日出ずる国から3人の気鋭のデザイナーが、世界のランウェイに殴り込みをかける。

「カワクボ[川久保玲]がパリのハイファッションのステージで発表したのは『穴あき服』や『つぎはぎのある服』『コブのある服』だったし、ミヤケ[三宅一生]の服は『刺し子でつくった防空頭巾風のコート』であり、ヤマモト[山本耀司]の服は『黒一色の忍者のような服』だった」。

「『高級なよそいき服』だけがファッションだった時代」に、彼らは「貧乏人の服」をもって風穴を開けた。

 時は流れて2000年のジョン・ガリアーノはこの路線を再解釈してさらに尖鋭化して、そして酷評を浴びた。均質化のハイ・エンドに覆われたファッション・シーンにおいて、個性と呼べるものが衣服の中に見出し得るとするならば、それは今やホームレスにしかない、彼はそう喝破した。他に替えがないという理由で日々着続けられる彼らの衣服は、もはや彼らのワン・アンド・オンリーな皮膚の一部を形成している、これを前にして、オリジナリティと呼べる何かを世界のコレクションのどこに見つけることができるだろう、と。

「創世記」のできごと、イサクの臨終の間際、ヤコブは双子の兄エサウになりすますことでめでたく父からの祝福を勝ち取る。毛深いエサウとの錯誤を弱視の父に引き起こさせるために、弟は子ヤギの皮を身体にまとう。その瞬間、親子をつなぐアイデンティティとはすなわちレザーとなった。

 皮膚の一部、自己の一部としての皮革を用い続けてきたのは西洋文化圏に特有の現象ではない。幸いにも――部落差別の歴史を思うとき、この表現を軽々に使うべきかについては大いに躊躇の余地がある――そんな伝統が日本にも脈々と息づく。

 実は「日本がピッグスキンで世界をリードしていることはあまり知られていない。そして全国の豚革の大部分を生産するのが東京であり、しかもピッグスキンの加工場が墨田区であることも、東京に住んでいる人々すらほとんど知らない。……日本の豚皮の品質は世界的に最も優れているのだという。豚を処理する大きな食肉工場が品川にあり、豚を屠畜してからその原皮がすぐさま墨田区に運ばれ、加工されるのでフレッシュなのだ」。

 余りものから無駄なく近場で作られた商品を丁寧に使う、メンテナンスのために持ち込むのも容易である、ファッション産業の環境負荷が叫ばれる時代にあって、これほどまでに地産地消SDGsに適ったモデルはそうそう見当たらない。

「ブランドbrand」とは、そもそもが家畜の皮膚に押し当てられた焼きごてを指していう。

 SNSでシェアされるためだけの消費物としての「ストーリー」の傍らで、地元に根差した一生モノの一点をまるで自分の皮膚のように大事に使う、誰がそれに気づかずとも、本書にはそんなもうひとつのパーソナルな「ストーリー」がある。

 

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