明日に向って撃て!

 

 なぜぼくは「アメリカ」を書くのか、と時どき自問する。簡単に言えば、この国が好きであり、面白くてたまらないからだ。面白いというのは、アメリカという国が、世界のどこの国とも異なった成り立ちを持ち、作られ方をしてきたからだ。それは世界史の中では稀有なことで、奇跡と言ってもいい。あらゆる幸運が、この若い国に起こったとしか思えない。

 それがどうやって起こったのか、なぜ起こったのか、そのことは長くアメリカを旅してきて、少しずつ分かってきたように思う。それはやがて、そのままアメリカの真の姿、真のありよう、その国に住む人びとの真の姿を理解する、大きな手がかりとなるに違いないと確信をするようになった。そして、そのことを書きたいと思い続けてきた。

 

 旅をしているようで旅をしていない。

 本書のもととなるのは、1998年から2005年にかけての雑誌連載。その当時、筆者は1年のうちの70日ほどを費やして、アメリカの街から街を車で訪ねて回っていたという。あるいは本書では、時にアメリカを経由して、人物ゆかりの日本の地へと出向いたりもする。

 そこで暮らす彼らにとってはごく「ありふれた町」、しかしアウトサイダーの目にはしばしば特異なありようをしている、そんな光景をしかし本書は頑ななまでに切り抜こうとはしない。

 筆者の眼差しは一貫して失われし日々への郷愁へと向かう。現在の「ありふれた町」などどこまで行っても「ありふれた町」、「すでに『近代』というものに汚染された、汚濁」の集積物でしかない。所詮、その町並みはノスタルジーへと没入するための媒介でしかない、そして実のところはその機能すら果たさない。

150年前、やがてはビリー・ザ・キッドと呼ばれて西部の人びとを恐れさせ、世界の多くが知ることになる稀代の悪漢が、少年時代に走り廻り遊び呆けた街という面影はどこにもなかった。どこかに彼の痕跡がないかとしばらくの間うろついてみたが、彼ら一家の実在を確認できるものは何一つなかった」。

 誰しもが必ずや呆れ果てずにはいられない。そうして筆者は過去の記録をひたすらに綴る、「ありふれた町」のどこにも見出すことのできない「真の姿」が、その中にならば横たわっているという。

 

 今の映画は頭では面白がれるけれど、心の奥までは届いてこない。最近の映画はすぐに筋を忘れてしまうのに、あの時代のそれはいつまでも心に残っている。そして不思議なのは、あの時代、音楽や映画を通して世界中の若者が、ある感性や情念や気分といったものを分かち合っていたように思えることだ。アメリカを舞台にした物語なのに、世界中さまざまな環境の中にいる若者の誰もが、共感できたのである。アメリカ文化の凄さは、そのあたりにある。……

 あの時代、むさぼるように映画を見た。『俺たちに明日はない』が日本で公開された1968年には、『卒業』があり、『ブリット』があり、『2001年宇宙の旅』と『猿の惑星』があった。翌年には『ワイルドバンチ』があり、『真夜中のカーボーイ』があり、『ローズマリーの赤ちゃん』もあった。70年が決定的だったな、と今にして思う。『イージー・ライダー』があって、何よりも『明日に向って撃て!』があった。

 幾度となく手を変え品を変え吐露される筆者の時代観、世界観は概ねこの2ページほどに凝縮されている。

 筆者にとっての少し遅れたグッド・オールド・デイズがそこにはあって、その原型をさらに求めれば、ビリー・ザ・キッドなる「外法者out law」にたどり着く。

「ビリーは、金銭目当てではなく、ただ、自由を生きるために銃を使った。そして気がつくと、法の外側に歩み出していた。

『無法者の烙印』を押される、という言葉はそのことをよくあらわしている。彼は無法者になりたかったのでも、無法者の団体に加入したのでもない。法の内側で法に守られ、その権力機構に組みこまれて生きることを選んだ人びとによって、『無法者』と指定されたのだ。その人びとは正義というよくわからないものを盾に、自分たちが住みよくするために作った『法』を押しつけ、自由に生きようとする者に枠をはめる。そこからはずれた者、そこにおさまりきれない者に、『無法者』という烙印を押す。……外法者にとって、『法』はほとんど意味がない。『法』の外にいる人間には、『法』はまったく意味をなさないのだ。ビリーという男を見て、つくづくそう思う」。

 

 奇しくも筆者にとっての「あの時代」の終わり、日本においても、全く同じようなことを説いて、そして自害を選んだ「外法者」――とも思わないけれど――がいた。19701125日の市ヶ谷で、そう、三島由紀夫である。

「近代」や「法」への果てなき憎悪に駆られる三島にとってのビリー・ザ・キッドとは、すなわち天皇だった。もっとも、ヒロヒトや、ましてや軽蔑を何ら隠そうともしなかった時の皇太子がそんなものを体現する存在でないことくらい、いかに愚かな彼にだって分かっていた。過去のいずこを辿れども、「檄」が希求する「真の武士の魂」に正当性を認める天皇の「真の姿」など、現れてくるはずもない、なぜならそんなものはないから。

 仮にもし150年前にその町を訪れていたならば、必ずや筆者の追い求めてやまないビリー・ザ・キッドの痕跡は見出されていたことだろう、はずはない。アレン・ストリートは150年前にだって「ありふれた町」だった。

 世界のいずこをさまよおうとも、旅とはすべて足で踏みしめるその大地が「ありふれた町」でしかないことを知らされるためにある。たとえモダニズムを知らずとも、有限個のスクリプト組み合わせという「法」の「外」など持ちえないすべて人間には、「ありふれた町」ならざる「町」を構成する能力などそもそも与えられてなどいない。

 その現実を見たくなければ、永遠のアームチェア・トラベラーを決め込むしかない、もしかしたらテキストやフィクションの中ならばその「自由」がある。

 

 

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ねじまき鳥クロニクル

 

 ぼくはいまだにそのことを知らないでいるしこの先も知ることは決してないけれども、きみはバンコクの日々、ルンビニー公園にもほど近い、サートーン通りを折れたところの道路に面したアパートメントタイプのホテルの部屋を日本から手配してあった、そこで過ごした。きみはまんまとぼくから逃げてぼくに知られることなく、そこはダイニングキッチンと寝室の二部屋からなる、ぼくたちが暮らしているこの部屋よりもほんの少し広いくらいだった、きみ一人で暮らすには申し分ない大きさだった、そこで無為をむさぼることを満喫していた。……

 きみがバンコクに向かったその日の朝、それはもしかしたら単にぼくがひどく鈍感だったというだけのことなのかもしれない、けれどもきみにいつもと変わった様子はなかった。朝食の時のきみは何も食べていなかった、コーヒーだけすすりながらぼくが食べているのに付き合っていた、そしてブロッコリー・レボリューションというボードゲームが最近ちょっと評判になっているらしいという話をしていた、けれどもぼくはボードゲームというものにこれっぽっちも興味がなかった、……ぼくはいまだにそのことを知らないでいるしこの先も知ることは決してないけれども、ブロッコリー・レボリューションなんてボードゲームは存在していなかった、きみはぼくのことを、ぼくにそれと悟られないようにこっそりからかっていたのだろう、ブロッコリー・レボリューションというのはスクムヴィット通りに面したバンコクのカフェの名前だった。

 

 この表題作「ブロッコリー・レボリューション」がフィクションという体で書かれているということをひとまず括弧に入れてみる、例えばこれをブログなりSNSなりに綴られた「ぼく」の独白として読んでみる。

 冒頭間もなく明かされるのは、「ぼく」が「きみ」に対して働いた「きみにとっては暴力的と感じられていたのかもしれない振る舞い方」、「たまり込んだ負の感情」を「きみの両肩を掴み、部屋の壁や床に押し付けて身動きを取れなくしてから言葉の体をなしていないそれ以前の嗚咽の声の限りを上げて、怯えとぼくに対する蔑みとが入り交じった表情を浮かべたきみの顔に向かって浴びせかけ」る、というその行為。少なくとも「ぼく」の解釈する限り、そうした日々に倦み果てた「きみ」が置き手紙のひとつもなくバンコクへと逃げ出した、ということらしい。

「ぼくはいまだにそのことを知らないでいるしこの先も知ることは決してないけれども」という留保を幾度となく積み重ねながら、「ぼく」は「きみ」のタイでの暮らしぶりを描き出す。単にひとりきりのはずの室内での様子すらもカメラで捉えるように精細に追跡するだけではない、しばしば「きみ」の内面すらも代弁してやまない、あのときは、という回想を後日「きみ」から聞き取ったわけでもないはずなのに、というのも、なにせ「ぼくはいまだにそのことを知らないでいるしこの先も知ることは決してない」のだから。

 これを仮にダイアリーとして捉えるならば、読者は必ずやそこにDVモラハラ夫による妻への支配欲の典型を見て取ることだろう、「きみ」の何もかもが「ぼく」にはお見通しなのだ、と、そしてその文体こそが執着の無二の自供となっていることに戦慄を覚えるに違いない。

 

 ところが、この括弧を再び外してあくまでフィクションなのだという前提に立ち返るとき、「きみ」をめぐる描写の窃視性は驚くほどの鈍化を見せる。行きつけとなったホテル近くの店でカオマンガイを食する「きみ」や、暖かくも乾燥した空気に身をさらしながらベランダでまどろむ「きみ」をそういうものか、と読み進めることができてしまう、「ぼくはいまだにそのことを知らないでいるしこの先も知ることは決してないけれども」との注釈さえもさしたるノイズとはならない。

 なぜならば、「ぼく」という書き手による「きみ」――それがいかなる人称を取ろうとも――のデッサンを小説というものにおけるごく普通の作法としてすっかり受け入れているから。「ぼく」がいったいいかなる仕方で「きみ」を眼差すことができているのか、ということにはほとんどの場合において注意が払われることはない。それは他の媒体表現でもあまり変わるところはない、映画においてカメラという営みがどうして可能なのかをいちいち問うことをしないし、演劇において観客席がなぜに成り立つのかをさして不思議だとも思わない。

 物語に沈み込むということはすなわち、「ぼく」になること、「きみ」の全能の神として支配すること、「ぼく」の情念をことばに変えて「きみ」へとぶつけること。

 

ブロッコリー・レボリューション」の舞台となるのは、2018年の初夏。

 当時のタイは、少年サッカーチームが洞窟内に閉じ込められた、というニュースで持ち切り、同じ競技のつながりでいえば、ロシアではワールドカップが開催されていた。

 そして線状降水帯が猛威をふるったその金曜日、日本ではオウム真理教幹部7名への死刑が下された。あたかも選挙特番の当確アナウンスのように、各地から飛び込む執行の報を伝えるあのテレビ・プロパガンダを「ぼく」もまた見ていた、「きみ」が失踪してさえいなければ、「ぼくはきっとそのニュースにものすごく動揺させられていたんじゃないか」。「なんだか冷静に思った」とは言いつつも、「ぼく」は曰く「嘘の狂気」にまみれた麻原彰晃に「異様なグロテスク」を見ずにはいられない。もっともその嫌悪はテロリズムへの憤怒には由来しない、「世の中が事件の真相を知りたい、麻原から何かほんとうの言葉を聞きたいという期待を抱いていることに対して応えてやるものかという意志」をこの空虚な中心に読み解く「ぼく」は必ずや投影していることだろう、「ぼく」のLINEに一貫してスルーを決め込む「きみ」を、そうすることで「ぼく」の「期待を抱いていることに対して応えてやるものかという意志」を表明する「きみ」を。

 

 そんな中、いささか奇妙なセンテンスに出会う。

 どうやら「きみ」が家を出たらしいことを把握して間もなく「ぼく」は書棚にできた空白に気づく、いわゆる鈍器本を「きみ」がピックしていったようだ、そして独白せずにはいられない、「どうして小説を読む習慣なんてないはずのきみが、しかもよりにもよってそんな分厚いのを選んで持って行ったのか、ぼくにはまったく不可解だった」。「ぼくはいまだにそのことを知らないでいるしこの先も知ることは決してないけれども」とくどくどしく断りつつも、延々と「きみ」の内面の憶測を既成事実化し続ける「ぼく」がことこの局面についてのみ、紛れもないその不可知をためらいなく告白する。

 

「ぼくはいまだにそのことを知らないでいるしこの先も知ることは決してないけれども」を表明し続けるこの小説は、いかにも大いなる謎を残して閉じる。

「きみがバンコクに行ったのだというぼくの妄想」が現にこの世界線においては「妄想」でしかなかったとした上で、そもそもどの程度のフェーズにおいて「きみ」はいないのか、と。

 はじめから「ぼく」というストーカーがでっち上げた同棲願望の表象としての「きみ」しかいなかったとしてもさしたる驚きはない。「きみ」はもとより恋愛シミュレーション・ゲーム上の存在でしかなくて、データ破損とその虚脱感を「ぼく」が訴え続けていたとしてもやはりさしたる驚きはない。DVを繰り返した末に姿を消した、言い換えればこの一連の「妄想」にもその程度の真実は籠められていたとしてもやはり驚くにはあたらない。

 もちろん一読者は「いまだにそのことを知らないでいるしこの先も知ることは決してないけれども」、そもそもが「きみ」なんてどこにもいない、この創作物に「ぼく」をめぐるとりあえずのファクトがあるとするならば、「公園には誰も来なかった」ことだけなのかもしれない、「きみ」だけではなく「誰も」、これまでも、そしてこれからも。

 

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Anyone Who Had a Heart

 

 尾去沢ツトムは、小波の父だった。

 厳密には父と言い切るわけにはいかない、あくまで父とおぼしきひと、だった。「あれがあなたのお父さんよ」と言い聞かされてきた相手、というのがじっさいのところであり、父なのかもしれないし、そうではないのかもしれず、小波はその点について未だに懐疑的なままだった。なぜそのような曖昧な態度に留まらざるをえないのかといえば、なにしろツトムというのがこのとおり、マネキン人形にしか見えないせいである。

 

 所詮は観光施設に展示されたマネキンの一体にすぎない、そんなことは知っている、しかし「父とおぼしきひと」と自らに言い聞かせるに至る相応の理由が小波にはあった。

 

 母の語りには随所に破綻があって、けれども幼い小波にとって母はほんとうに唯一の肉親であったから、母の機嫌を損ねないということはつねに、ほかのなによりも優先されるべき彼女の最重要課題であり続けた。母の語りの綻びを指摘したり追及したりするのを意図的に避けるスキルは水の飲み方を覚えるみたいに自然に身について、だからこの母子のあいだにはどこにも、ブレーキというものが存在しなかった。むしろ小波という優秀な聞き手が存在したことによって、母自身の生い立ちやツトムとのなれそめなど、すべては加速度的に寓話的なものになり続け、雪だるま式に膨れ上がり、母と小波のボロ屋のうちがわには、奇怪な空想の城ができ上がっていったのだった。

 

 長じてやがて母を失った小波は、「随所」どころではなく「破綻」した自らの語りの「優秀な聞き手」を夫に求めるも、彼に引き受けられるはずもない。ある日、帰省の計画を打ち明けると、妻よ、目を覚ませ、と夫は滔々とまくし立てて説得にかかる。その姿に小波は笑いを抑えきれない。

「配偶者がまったく理解できないことを言い出したというときに、このようなまるきり紋切り型の拒絶反応を見せた夫のつまらなさに、小波は噴き出したのだった。……あなた疲れてるのよとか、夢でも見たんじゃないのかとか、それしか言えないのかというくらいに決まり切った台詞で、執拗なまでに主人公の経験を否定して寄越す。フィクションの世界のことと思っていたそれを自分の夫がいま現実にやってみせたのがおかしくておかしくて、小波は笑ったのである」。

 

 開始早々、おそらくは夫の目線に限りなく近いだろう読者たちは、必ずや困惑に駆られる。

日本橋三越に、秋田の実家の洋服箪笥に貼ってあるはずの、〔けろけろ〕けろっぴのシールが貼ってある」――どう読んでも記号的なまでの幻覚の類でしかないことはただちに知られる。イケアのモデルルームで出くわしたツトム――というかもちろんマネキン――に脳内で罵倒を浴びせてはみるも、ただちに罪悪感に苛まれずにはいられない、そんな彼女に「お大事に」という以上にかけるべきことばなど、少なくとも私には見つけることはできない。

 統合失調症、とか、境界性人格障害、とか、妄想性障害、とか。

 小波やあるいはその母の症例を説明するための診断名にはおそらく事欠かない。もっとも、これらの記述がどれほどまでに臨床サンプルを的確に踏まえて綴られているのかなど、精神医学を生業とするでもない一読者には知る由もない。

 

 よそさまを素人診断でラベリングして悦に入る、いくら相手がフィクショナルな造形物だとしても、それが適切な態度とも思わないし、それ以前の問題として、ただただ単純につまらない。

 だからこそ、あえて束の間小波の目線に沈潜する。

 郷里に帰り着いた彼女は、打ち捨てられて廃墟と化した昔日の炭鉱の光景に「最盛期の活況」をオーバーラップさせてみる。

「骨組みに肉をつけ、色をつけ、あらゆる管に血を電気を水をなにかをとおす、すみずみまで通わせ挙動させる。……小波はそのなかにちいさく自分を立たせ、甘い匂い、金属音、煙、熱、風、さまざまのものを彼女の周囲に立ち上げた。……

 そうした気配をじゅうぶんにあじわうと、小波は最後に、その喧騒のさなかに訪れる一瞬の、コンマ一秒の無音状態を想像した。なんらかの偶然が無数に嚙み合って、機関の歯車のきしみも風も人びとの対話も、すべてがふっと押し黙る一瞬、いっさいの無音。それがいまうんと間延びして小波の目の前に、ここに展開され薄く広げられ、引きのばされ、保存されている――ああ! 小波には、このようなことを考えている時間がほかの何よりも楽しかった、有意義だった。こういう頭と意識の使い方ならば、いくらでも飽きずに続けられていた」。

 早朝のその場所を彼女の他に誰が訪れることもない。限りなく無音のその風景をじっと見つめてみたところで、そんなものはすぐに飽きが来る。彼女には誘われるべきノスタルジーもない。しかし空想のざわめきを重ねた後で改めて走るその静寂は、たちまちに背筋そばだつ感覚を植えつけずにはいない、流れているのは同じ「無音状態」だというのに。

 夫が象徴するだろう現実など、所詮「紋切り型」の反復を超えない。「つまらない」彼らは自身の「紋切り型」性に死のその瞬間まで決して気づくことはない。終生コピペ的存在でしかあれない彼らにしてみれば、「紋切り型」からの逸脱をもって例えばそれを狂気と呼ぶ。

 

 ミゲル・デ・セルバンテスドン・キホーテ』において、かたや遍歴の騎士は風車に怪物を見て、かたや従者は怪物に風車を見る。風車はどこまで行っても風車に過ぎない、サンチョ・パンサが象徴するだろうその常識なるものは、あくまで風車は風車でしかないという「紋切り型」を繰り返す、その限りにおいて成り立つ現象に過ぎない。凡庸な年老いたロバに稀代の名馬を見ずにはいられない、騎士道物語がご主人様にかけた魔法の魅惑など彼には決して分からない。

 梶井基次郎檸檬』において主人公は一粒の柑橘に爆弾を見る。やがて脳内に爆ぜてほとばしるだろう金色の閃光のまばゆさを知る者が、吹き飛ばされて然るべき現実とやらに目をやるべき理由、つまりはレモンをレモンと呼ぶべき理由など、何ひとつとしてない。

『家庭用安全坑夫』は、そんな古典的なモチーフを改めてなぞり直す。あるいはその点をもって「紋切り型」とも云う。

 現実が「紋切り型」のテンプレートの集積物でしかないように、フィクションもまた、「紋切り型」のコピペをリピートすることしかできない、それでもなお、紙に刻まれたたかがモノトーンのシミが、「ほかの何よりも楽しかった、有意義だった」。テキストの快楽とはすなわち、「紋切り型」が「紋切り型」でしかないことを知悉したその上で「優秀な聞き手」を引き受ける、その行為に他ならない。

 

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人生がときめく片づけの魔法

 

 気がついたら、部屋も暮らしもなにもかもが、カオスになってしまった。その理由を考えてみる。仕事も内容どころか種類すら選ばずに請けていたことも、大きい。けれども、やはりあれだ。本も物もなにもかも捨てられない体質そのものが、いけないのではなかろうか。しかも捨てられないだけではない。古着や骨董、がらくたやゴミまでを、買ったり拾ったりするのも大好きなのだ。……

 が、カタストロフは突然にやってきたのである。

 疲労が貧困を呼び、貧困が疲労を呼び、無理に無理が重なりダメループを為し、ストレスが積み重なった結果なのか、単なる偶然か、乳癌にかかってしまった。……

 不思議なもので、ホルモン治療を止めてからも、部屋のカオスはもちろん、ごちゃごちゃしたところ、風通しの悪い日陰、地下などにいると、発作とはいかないまでも、いやーな感じに襲われ、息苦しくなってしまった。そしてこれまでモノがなんにもないガラーンとした空間なんて、怖くて住めないと思っていたのに、一切の音が遮断された、ホテルの部屋のような、現実味のない空間が大好きになってしまった。

 モノはなけりゃないほどいいし、隠せるものなら全部隠してつるっぺたにしたい。したいったらしたいんじゃあっ!! さようなら、見せる収納、マータイさん

 マータイさんは、高度経済成長期もバブル期も、メディアに登場するずっと前から自分の心の中に棲み続け、mottainaiというあの呪文を唱えてあたしをずっと、支配してきたのである。けれども、さすがにもうお別れしたいと、身体がシャウトしている。

 

 あー、今年も来てしまった、『食べて、祈って、恋をして』枠、あるいは別名『「女子」の誕生』枠とか『Over the Sun』枠ともいう(当社基準)。一年に一度くらいはうっかりつまみたくなってしまう、でも二度は絶対無理、んなこと読む前から分かってんだろ、な情緒不安定な季節の変わり目の珍味系当たり屋枠、というか言い訳させて、今回は違う、分かってホイホイ突っ込んでいったわけじゃなくて、ついふらっと『本で床は抜けるのか』に勧められて、お片づけが絶賛マイブーム(?)なもので、うかつに手を出してみたら、まんまと混ぜるな危険トラップに引っかかってただけなんだって。

 だってしょうがなくない? とっちらかったパワーワードの乱れ打ちで、数ページめくる度に、そうだコーヒー飲もうとか、メールチェックしとことか、やべっ風呂掃除忘れてたとかって紛らわせないとやってられない、ワイドショー垂涎のゴミ屋敷文体なんてまだまだほんの序の口で、『捨てる女』というタイトルの本でまさかあなた、筆者と能町みね子が互いの女性器を見せ合いっこする地獄絵図を読まされるなんて罰ゲーム、誰が想像できます? 「すべての仕事は売春である」、いや、なってねえから、この描写を官能小説として嗜めるほど人としての修業が足りてないんです、ごめんなさい、せめて笑い転げるくらいしとくべきなんでしょうけど、もうね、別の何かを捨ててるこんなBBAの悪ふざけを押しつけられて発狂する私は果たしてミソジニー呼ばわりされなきゃいけないのか、とついこじらせて、その日はそれきりテキストを閉じてしまう、しょうがないよ、そうでもしないとコルチゾールがドバドバあふれちゃってなけなしのナチュラルキラー細胞が全滅しちゃうもん。さらにたたみかけるように、そらゴミといえばゴミだけどさ、よりにもよって311きっかけでトイレットペーパーを断捨離しちゃった他人様の排便事情を延々と浴びせられるとか、もちろんデトックスとかいう意識高い系オブラートにくるむなんてしゃらくさいこともして下さらずに、赤裸々というか、いや、もうちょっとマジ無理だし、つーか、さっきからウンコとマンコの話しかしてねーし。

 

 と、そんなカオスから一転、本書はやがて静寂で覆われる。

「この数年間、古本もイラスト原画もなにもかも、持ち続けていることが重荷で重荷で重荷で重荷で、放り出したくてしかたがなかったにもかかわらず、手放してみたら、すっきりしゃっきりどころか、ガックリしてしまったのだった。えーっ、なんでだ、自分」。

 別にこんなあからさまな独白に頼るまでもない、ラスト3分の1ほどだろうか、憑き物が落ちたように、引っかかりが見事に消える。スーっと読める、読めてしまう。

 嵐が過ぎたその後で、例えば『マカロニほうれん荘』最終回の、あのがらんどうの空室を見せられる感じに少なからず似て、そうして悲しく知らされる。

 人はモノでできているのだ、と。

「こんなにいっぱいの 君のぬけがら集めて/ムダなものに囲まれて 暮らすのも幸せ」(槇原敬之「もう恋なんてしない」よりの抜粋)なんじゃなくて、暮らすの「が」幸せなんだよ、ときめきなんだよ、くたばれこんまり。

 

 

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relentless.com

 

〔ジョージ・〕オーウェルが本屋になることをためらった気持ちはよくわかる。テレビドラマ「ブラック・ブックス」でディラン・モーランが見事に演じてみせたような、怒りっぽくて気難しい人嫌いの書店主、というステレオタイプは、おおむね事実のようだ。もちろん例外はあって、このタイプにあてはまらない本屋もたくさんいる。しかし悲しいかな、ぼくはまさにこのタイプなのだ。もっとも最初からこうだったわけじゃない。今の店を買う前は、かなり素直で人なつこいたちだったと思う。一日中くだならい質問を浴びせられ、商売はいつも火の車、スタッフとは口論が絶えず、客はしつこく値切ってくる。そのせいでこうなってしまったのだ。どれかひとつでも変えられないかって? 無理だね。……

 うちで働いてくれた連中は口をそろえて、ここのお客とのやりとりを書き留めれば本が一冊できるねと言っている――ジェン・キャンベルの『本屋でお客が言う変なこと』がそのいい証拠だ。そこで、悲惨な記憶に苦しめられつつ、将来何かを書くときの助けになればと備忘録のつもりで、店であった出来事を書きつづりはじめた。始まりの日が気まぐれだと思われたとすれば、実際そうだからだ。たまたま書きはじめてみようと思ったのが25日で、備忘録は結局、日記になった。

 

 よく言えば英国式のウィットとユーモア、ストレートに言えば気が滅入る。

 このテキストをカラフルに彩るのは、開くページ開くページ、よくもこれだけとヴァリエーションに事欠かない、どうしようもない客と、そしてどうしようもない客。

 例えば215日のオープニングを飾った一本の電話。「恥ずかしいと思わんのか。こんな紙くずを送りつけておいて、よくも本屋だとほざくな」とカスハラ全開のクレームをまくし立ててはくるが、よくよく聞いてみるとどうやら別の店を間違えてかけてきたらしい。そうと分かった上でなお、捨て台詞は「必要な措置を取るからそのつもりで」。

 33日には、アマゾン経由で買われていったテキストがメモ書きとともに返送されてきた。曰く、「残念ながら期待外れです。もっと写真の多いものを希望。交換または返品願いたし」。本を読むという以前の、人としてのベーシカルなリテラシーが足りているようには思えない。

 44日の電話注文は、とある三部作の1巻目をかつてこの店で送料込み7.20ポンドで購入したという顧客から。市場における稀少価値やコンディションを反映したものなのだろう、その2巻目については200ポンドの値がついている。ついては、と電話越しにねじ込んでくることには、1巻目と同じ価格で2巻目も買いたい、つまりは96パーセントオフにしろ、と。

 お客様は神様です。

 んなわけねえだろ。

 

 ただ字面で記されている通りを忠実に読み解こうと試みるならば、本書はいかにも痛々しい。ビジネスという観点では、早晩書籍というジャンルを飲み尽くしていくだろうamazon.comの脅威に比すればモンスター・クレーマーどもなどまだまだかわいいものだし、バイト店員たちにしてもなかなかにファンキーな逸材が揃っている。

 日々悩みや不安に苛まれる自画像、それもあながち嘘ではなかろう。しかし、そればかりでは人間どこかで破綻する。一見すればコルチゾール全開のテキストをかいくぐるように、その行間に目を凝らす。

 例えば32日の独白、「いずれにしても、ぼくは防犯カメラというやつが大嫌いで、店でそんな人権侵害のような監視をするぐらいなら、たまに本がなくなるほうがましだと思っている。『1984年』じゃあるまいし」。どうしようもない客たちにひたすら毒づきながら、それでもなお、筆者は彼らを信じていられる、その最低限のラインが決壊しない程度には、古本屋という商いは彼に何かしらの幸福感を担保している。

 このテキストにおいて、日付に続いて記録されるのは、「ネット注文数」と「在庫確認数」。そこにはしばしばギャップが認められる。それは、『種の起源』をフィクションのコーナーに、『19世紀の植民地運動』と『サダムの戦争』と『ウェリントンの連合軍』を第2次世界大戦のセクションに振り分けて悪びれるところのない従業員による管理が招いたものに過ぎなのかもしれないし、普通に想像される通り、単に万引きの被害を示唆しているのかもしれない。しかし筆者は頑として、カメラを設置しようとはしない、ジョージ・オーウェルの著作物以下の、この終末期の社会にあってすら。

 ある秋の一日、少年が4ポンドを握りしめてひとり来店する。ママの誕生日プレゼントを買いたい、というので一緒に選ぶ。値切ってくる客へのイライラは尽きない、けれども少年の思いに応えるとなれば、6ポンドの本をおまけするくらい訳はない。

 また別の日のこと、ティーンエイジャーが差し出したのは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』。「ぼくが彼と同じくらいの年で、もがきながら大人になりかけていたころ、この小説ほど影響を受けた本はない。サリンジャーが描いた、そこで生きていくことを強いられた社会と折り合いをつけられずにいるホールデン・コールフィールドの人物像は、1951年に初めて出版されてから何十年ものあいだ、数え切れない10代の読者たちから共感されてきたのだ」。ここに新刊ではないあえての古本というメディアに固有のロジックが働く、それはつまり、人から人へと「共感」が引き渡されてきたことを証している。