Worst Behavior

 

 主人公の一果はフードファイター、テレビ番組「真の大食い王者は誰だ?!」では4連覇を達成し、チャンピオンの座に君臨している。陽の目こそ見なかったものの元グラドルというルックスと上品な食べ方から「大食いクイーン一果」との愛称を授けられ、放送直後にはSNSのトレンドワードにそのニックネームが浮上する社会的認知度を誇る。もっとも彼女がメディアに露出するのは年に一度の「真王」のシーズンにほぼ限られる。テレビタレント化することもなく、YouTubeチャンネルを開設することもなく、その日常といえば彼氏と同棲する、しがないスーパーのパートタイマー。

 そんな無敵の女王に対して今回の予選では思わぬダークホースが台頭する。「いっさいの感情を表に出さず、ただ黙々と機械的に、目の前の食べ物をとりこんでいく。前屈みになってわずかしか開かない口に、無理やりねじ込むように食べ物を入れるので、こぼしたり、口元を汚したりと、食べる姿は見ていて決して気持ちのいいものではない」、そんな通称「鉄仮面」の前に一果はついに後塵を喫する。

 

「底が見えた気がした。」

 この一文をもって本書は書き出される。

 当然、一つ目のミーニングとしては、フードファイターとしての「底」を指す。誰と比べて一皿でも1グラムでも多く食べるかではない。「私は、私の底を知りたかった。おそらく、ずっとそう思ってきたのだ。隙間なく食べ物を詰め込んだ先に、恵まれた身体の奥行の先に、コントロールし得ない領域まで達した時の自分の最奥部を感じたかった」。

 しかし、そのストイックな姿を追うに留まるのならば、それは一介の業界もの似非ドキュメンタリーの域を超えない。本書に埋め込まれた第二の「底」は、例えば同棲相手の亮介とのささいな行き違いのシーンに現れる。

「亮介は、互いの主張によって意見がぶつかりそうになる時、会話が深刻になりそうな時、すばやくそれを回避する。くだらない発言やふざけた調子で場を和ませ、少々強引なほど話題を変える。そういう時の亮介は、どこか必死で、かわいそうなほどに切実だ。彼は同時に、自分が理解できない物事に直面しても突き詰めて考えずに踏みとどまる。それでいて、相手に気を遣って発言を控えたりはしない。言葉を口にする前に考えるのではなく、口にした後の相手の反応を見て後悔するのだ。私は私で追及しないので、基本的に摩擦は起きない。本音でぶつからない分、つき合いは長くても互いに心の底から分かり合えているとは言い難い」。

 あえて「摩擦」を起こす、相手の「底」に触れるような何かを起こす。そのハイライトが、大会決勝にて訪れる。「鉄仮面」に追い詰められて絶体絶命のラスト数分、一果はまとっていたゼッケンとパーカーを脱ぎ捨てて、勝負服のビキニ水着を露わにする。「真っ白な胸元が日差しにさらされ、谷間を細く長い汗の筋が緩く流れていく。胸のすぐ下から大きく弧を描くように膨張した腹は、伸びた皮膚が張り詰め、表面には浮き出た血管が亀裂のようにはしる」。その刹那、彼女は思った。「自分の膨れた腹を、その瞬間のリアルな苦しさ、過酷さを、カメラの前で明示したいと思った。限界などなく易々と口に運び続ける姿がプロであり、私の強みであるなら、世間が抱く幻想を打ち破りたかった」。

 見たくないものは見ない。そんな視聴者にとってはしかし、衣服の覆いをはぎ取った彼女の「底」は表題そのまま「エラー」に過ぎない。歪な半裸はgifやスクショによってすぐさまネット上に拡散され、冷ややかなSNSのレスポンスをもって、彼女は自らの王朝の終わりを知る。

 見たいものだけを見る。そんな世間に向けて、新女王の座に就いた「鉄仮面」が提供したのは、それまでの無表情を一変させて、息子たちに勝利の報告をするその笑顔だった。ヒールから一転、「仮面の下にのぞく優しい母の顔」という咀嚼の容易な感動ポルノは、いかにも彼らが欲してやまないものだった。

 一果とて、かつてはその求めに応じてきた。例えばステーキの感想を問われて言うことには、「柔らかいんですけど、弾力もあって、ジュ―シーで……! もう、口の中に広がる肉汁がやばいですね。……半端ないです。一生食べていたいっ!! とにかく牛さんに感謝したいですね」。

 しかし実際のところといえば、「香りを嗅ぐと満腹感を覚えやすく味にも飽きやすくなるため、極力嗅がないようにしている。そのため、どんな味がしたのか、どんな食感だったのか、大会が終わってみてもほとんど記憶に残っていない。それでも司会者は毎度ご丁寧にコメントを求めてくるので、原料や生産者に感謝の気持ちを伝えるのだ」。無論、そんな腹の「底」など、大衆は知る由もない、いや、単に知る気がない。

 大会を控えて、彼女が消化器のコンディションを慣らすために食するのは、「米を水でふやかし量をかさ増ししたおかゆや、茹でた麺。大量に用意しては、味付けをせず、水と交互に胃の中に流し込む」。しかし一般視聴者はそんな「底」など思いも至らない。あくまで彼らが欲するのは、自らに代わって食欲という快楽原理をだらしなく満たすモンスターの表象でしかない。

 

 誰も「底」など望んでいない、だからひたすら目を背ける。

 そんな時代の肖像を刻む。

 

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ドント・ルック・アップ

 

 本書の出発点は、あまり褒められたものではなく、なかば義務感、なかば日和見主義だった。トランプ政権の前半、わたしは『The Fifth Risk(第五のリスク)』という本を書いた。その中で連邦政府を「実存するさまざまなリスク(自然災害、核兵器、金融パニック、敵対的な外国人、エネルギー安全保障、食糧安全保障など)の総合的な管理者」と位置づけた。連邦政府は、正体不明の200万人が寄り集まった不透明な集団ではない。国民の意思を無力化するため周到に組織されたディープステート(影の政府)でもない。連邦政府は専門家の集まりであり、本当の英雄も含まれている。にもかかわらず、わたしたちは一世代以上のものあいだ、そういった優秀な人々を軽視し、雑に扱ってきた。その悪弊は、トランプ政権で最高潮に達したといえる。……

 その運が尽きたのは、2019年末だ。中国で変異したばかりの新型ウイルスがアメリカへ向かってきた。まさに、私が『The Fifth Risk』の執筆中に想定していたようなリスク管理が試される状況だ。立場上、この出来事について書かないわけにはいかなくなった。ところが、この件に深くのめり込むうち、おおぜいの素晴らしい人物に出会い、じつはそういう人々を通じてストーリーをつづるべきなのではないかと考え始めた。

 

マネー・ボール』においては、時のオークランド・アスレチックスGMビリー・ビーンをはじめとしたセイバー・メトリクス界隈の面々。ソロモン。ブラザーズを舞台とした処女作『ライアーズ・ポーカー』においては、何をおいてもルーウィー・ラニエーリ。どんなフィクションよりもぶっ飛んだキャラクターを演出することにおいては類稀なる才覚を示すこのマイケル・ルイスは、今作『最悪の予感』においても同様に、「おおぜいの素晴らしい人物」にスポットライトを当ててみせた。

 例えばそのコア・メンバーであるカーター・メシャーが、パンデミック対策の核心として学校に目をつけたのは、2006年にまで遡る。「ウルヴァリンズ」のひとり、ボブ・グラスから示された数学モデルに従えば、他の「どの方法にしろ、たいして大きな効果ではなく、ましてや、増殖力を1未満に下げてパンデミックを食い止めることは不可能だった。ところが、一つの方法だけ、結果がまったく異なっていた。学校を閉鎖して子供たちのあいだにソーシャル・ディスタンスを取ると、インフルエンザを模した病気の感染率は激減していくのだ(このモデルが定義する『ソーシャル・ディスタンス』とは、接触をゼロにすることではなく、子供たちの社会的な交流を60パーセント減らすことを指す)」。

 この計算には、アメリカに固有の事情が横たわる、なにせ全米の「公共交通機関を合計してもバスは7万台なのに、スクールバスはなんと50万台もある」。こうした机上のシミュレーションだけではなく、彼は地元の小学校にも実際に足を運ぶ。じゃれ合うその姿に彼は思わず絶叫する、「見ろよ! あの子たちは“小さな大人”じゃなくて別の人種だ。空間に対する感覚が違う」。そうでなくとも、教室も、廊下も、バス座席も、何もかもがすし詰めに設計されていた。

 行動派の彼はもちろん「ホワイトハウスの棚の上に置いておくだけでは、戦略は機能しない」ことを熟知していた。第一に働きかけるべきと見定めた相手は、公衆衛生の総本山、CDCだった。

 そしてつれなく黙殺された。

 

 本書の「素晴らしい人物」が講じたのは、日本にはその報の届くことのなかった幻のマジカル・ビュレットなどではない。検査の徹底であり、陽性者の隔離であり、ソーシャル・ディスタンス(先に引いた意味とは異なる、今日的な用語法としての)であり、つまりは何もかもが私たち――ワクチン一本足打法信者やベイズ推定に基づく検査抑制論者は数に入れない――がこの2年にもわたって身をもって叩き込まれた公衆衛生上のセオリーを一歩として超えるものはない。

 当たり前のことを当たり前にぬかりなく徹底する、本書があらわにするのは、凡庸といえばあまりに凡庸な、そんな事実だった。

 

 野球界というショービズを舞台にした場合ならば、ヒーローを輝かせるための間抜けなかませ犬として、例えばオールド・スクールのスカウトたちやテキサス・レンジャーズをだしに使ってもさしたる実害などなかった。『マネー・ボール』が喧伝するようなオークランドのひとり勝ちなど現実の野球では起きていなかったことをそもそも読者は把握していただろうし、スタッツに基づく選手の目利きが必ずしもそこまで芳しいものではなかったことは、選球眼の申し子ケヴィン・ユーキリスばかりが専らクローズ・アップされる点からしても十分に察しはつく。

 そして今回、このテキストにおいて引き立て役をあてがわれるのは、誰あろう、政府機関わけてもCDCに他ならない。官僚制の半ば宿命としての硬直化がアメリカの保健衛生を襲っていただろうことは決して否定はしないし、決断主義的な「素晴らしい人物」たちにしてみれば、やきもきさせられることが多々あっただろうこともあえて否定はしない。

 しかし、本書の読者は知っている、NIAID所長アンソニー・ファウチの存在を。確かに物言いは極めて慎重で、時に明瞭さを欠いた点もないとはいえない、だが、どうしようもないあの大統領がフェイクを飛ばす傍らで、科学コミュニケーションに献身した彼の存在が、マイケル・ルイスによって描かれるような頑迷固陋な政府機関の象徴とはかけ離れたものであったことを誰が否定することができるだろう。

 私の気づいた限り、本書が彼の名に言及するのは会議の出席者としてのただ一度だけ。本書の記述の重点がコロナ・パンデミック前夜に専ら割かれていることを差し引いても、彼への処遇には筆者の見立てに相反する不都合な真実があったと読むのが妥当ではなかろうか。

 例えば日本でも、コロナのごく初期において同様の対策を提唱していた人物のひとりに「8割おじさん」こと西浦博がいる。しかし、その経歴を見る限り、彼の導出したアプローチに「素晴らしい人物」たちからのカンニングの形跡は見えない。おそらくは本書の描出とは裏腹に、世界の感染症研究者たちには予めほぼ常識としてシェアされていただろう見解を西浦もまた、説いていたに過ぎない。

 

 以下に、筆者の社会観を如実に暴露する表現を引く。

「どこの会社でも、実は1割の従業員が業務の9割をこなしているように、ごく一部のウイルス感染者が大量の感染者を生んでいるのだった」。

 ここで着目を促したいのは無論、パレートの法則をさらに誇張した従属節である。筆者の惚れ込んだ「素晴らしい人物」が「1割の従業員」として「業務の9割をこな」したことにするためには、その他「素晴らし」くない斬られ役はどこまでも愚劣であらねばならない。物語的な痛快感を優先するエンタメ、バラエティの過剰演出ならば、このような二元論的世界観を素材に落とし込んだところで、さしたる毒は含まれないのかもしれない。しかし、アメリカ一国だけで100万人が命を落としたパンデミックを前にして同じ手法を取ることが、果たして奨励されるべきことなのだろうか。

 

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風の歌を聴け

 

 この話は2003年の3月某日、「アメリカがイラクへの攻撃を開始する、数日前」に始まり、その5日後に終る。

 

 本書所収の「三月の5日間」について語るその前に、「この話は、1970年の88日に始まり、18日後、つまり同じ年の826日に終る」小説、すなわち村上春樹風の歌を聴け』への唐突な脱線を試みる。文中を漂う漠然としたテクスチャーという以上に、この両者を結びつけるべき論拠は特にない。とりあえず、テキスト最終盤における「風の音を聴く」との表現からの安直な連想ゲームではない。

 

 

「自分の闘う相手の姿を明確に捉えることはできなかった。結局のところ、不毛であることはそういったものなのだ」。

 デレク・ハートフィールドに導かれるまま、『風の歌を聴け』は、そんな「不毛」な時代を描いた。

 その頃既に「花はどこへ行った」と歌ったピーター・ポール&マリーは「あの時代遅れ」な存在と化していた。ベトナム戦争という万人にとっての徒手空拳に疲れ果てた世界の中で、学生運動に参加した「僕」は前歯を機動隊員に叩き折られ、そしてフェードアウトを余儀なくされた。その頃には、「大抵は庭のついた二階建ての家に住み、自動車を所有し、少なからざる家は自動車を2台所有してい」た、とまでは行かずとも、少なくとも破れた鉄のカーテンの隙間から覗く東側諸国に比べればよほどまともな労働分配の担保された社会はこの日本にも実現されていた。それは同時に、オイルショックが否応なしに「成長の限界」を突きつける、その前夜でもあった。

 そんな「不毛」のただ中で「僕」にできたことといえば、「1969年の815日から翌年の43日までの間に、僕は358回の講義に出席し、54回のセックスを行い、6921本の煙草を吸った」、そんな定量的な存在へと自らを解消することだけだった。「彼女」がバイトするレコード店を訪れた「僕」が買うベートーヴェンのピアニストがグレン・グールドか、ヴィルヘルム・バックハウスであるかなど誰も問うていないし、ビーチ・ボーイズマイルス・デイヴィスが選ばれるべき必然もない。「5550円」。時の止まった世界の中で、この他に知るべきことなど何もない。

 

 そして「三月の5日間」は、そんな「不毛」な風景すらも「僕」と「私」に「許された特別な時間」への郷愁へとあるいは引き込まずにはいない。

 あるパフォーマンスの会場で知り合った「僕」と「私」は、その日のうちに意気投合というほどの何かもなく、道玄坂のラブホに入り、ひたすらにセックスを繰り返す。時計のない部屋の中で、ケータイの電源も落として、「時間という感覚から遠ざかるようなあの感じ」へとのめり込む。「今になって私は、今があれから何日経ったのか、今の日付はいつなのか、そんなこと分からなくなってしまいたい、という気持ちでいた自分のことを、冷静に俯瞰できる。そしてあのときは、そういう気持ちでいることが特別に許されていたのだということが、よく分かる。私たちは窓も時計もない、テレビも見ずに済む、子供の夢のような部屋にいたのだ。セックスして、そのあとまったりする。いつのまにか寝て、どちらが先に寝たのかがどちらにも分からないような幸福な奇跡の中で、私たちは短く眠る。しばらくすると一方が目覚め、遅れてもう一方が目覚めたり、あるいは目覚めさせられたりする。それからまたセックスをする」。

 しかし、そんな「子供の夢」もいつかは覚める。ひとつは空腹によって。やむなく外へ出る、それはたまたまランチタイムの時間帯、カレー・バイキングで食事を済ませ、渋谷の街を流していると、電光掲示に「バグダッド巡航ミサイル限定空爆開始」の文字が走り、「案外静かな」反戦のデモ行進にも突き当たる。部屋に戻った彼らは決める、「もうここまできたら、テレビは最後まで見ないってことにしたらどうかなあって……それでホテル出て別れて、俺ら、それぞれ自分の部屋に戻るでしょ。それでそれぞれの、普通の生活を、また始めるわけでしょ。そのときに久々にテレビ付けるじゃない。ネット見たりね。それで、あ、なんだよ、もう終わってるじゃん戦争、みたいなね」。

「特別な時間」には45日のリミットが設けられる、つまりそれはプラス250円のラッシーを追加することを「奮発」と呼ばねばならない、双方の経済的な理由によって。いずれかの住まいにおいて、この続きが延長されることはない。

 

 一度駅へと向かった彼女は、そして再び名残りを追って道玄坂へと引き返す。

「女から見て道の左側の、電信柱のひとつの、脇に、大きなポリバケツが置いてあり、そのバケツの隣には、大きな黒い犬がいた。犬は前屈みになっていて、バケツからこぼれたごみが地面に落ちているのをクンクンあさっているように見えた。でも、よく見るとそうではなかった。女は犬と人間を見間違えていた。犬の頭部と思っていた部位は人間の尻、それも剝き出しになった尻だった。女はホームレスが糞をしてるのを見たのだった。それが分かって女が吐き気を催すのと、女が、というより女の喉が『あ』と声を上げるのとは、ほとんど同時だった。……吐いたのは糞をしている光景を目の当たりにしたからではなく、人間と動物を見間違えていた数秒が自分にあったことがおぞましかったからだ」。

 一見すると、戦争という事態は、この「数秒」が平時になることに他ならない。奇しくも『風の歌を聴け』の「僕」は「二ヵ月の間に36匹もの大小の猫を殺した」。「猫」を「人間」に差し替えれば、あるいはその事態をもって戦争と呼ぶ。

 ただし、このひどくナイーヴな嘔吐――J.P.サルトルが実存の証をそこに見た――は、「特別な時間」があまりに「特別な時間」にすぎたがゆえにもたらされた、ほとんど錯誤の産物でしかない。このリップ・ヴァン・ウィンクルの吐き気が程なく収まったのは、「人間と動物を見間違え」ることをやめたからではない、「特別の時間」ならざる日常、つまりは「人間と動物を見間違え」ることにすっかり慣れ切った「不毛」な世界に帰り着いたからに過ぎない。

 確かに、現段階の科学をもってしても、異種間の交尾が生殖機能を帯びることはない、その意味においては画然と分かたれた「人間と動物」は、しかし、「僕」と「私」との避妊なきセックスが欠片も受胎の予感を残さなかったことによってあからさまに破られる。「僕」と「私」は、産児のためでもなければ、社交性の一環としてでもなく、さりとて快楽を貪る風でもなく、性交渉をする。ここにおいてセックスは、互いにその名も知らない男女によって営まれる、「特別な時間」をなんとなく埋めるためのレトリカルな記号という以外の機能を持たない。

 戦争を知らない子供たちでいられた、その限りで彼らに流れただろう「特別な時間」は、ところが戦争によってすら、何が変わることもない、終わってもいなければはじまってもいない。人々の間をかつて流れていたかもしれない時間なる何かは、とうにその作用を喪失した。世間とやらは「人間と動物を見間違え」ることを決してやめない、どころかわが身を守るためとあらば、能動的にこの「見間違え」へとコミットする。大きな物語の終わり、ベトナムの蹉跌をもって「不毛」へと仕向けられた人々は、アフガンやイラクを経てさえも、「不毛」であり続けた。311が何を変えた? コロナが何を変えた? 自他の分断はよりくっきりと先鋭化して、人はますます「不毛」になった。たとえウクライナを経験したところで――何も変わらない。

 

 村上春樹DJは言った。

 僕の言いたいのはこういうことなんだ。一度しか言わないからよく聞いておくれよ。

 

 僕は・君たちが・好きだ。

 

 とりあえず、2003年の渋谷に「君たち」はいない。1970年のラジオにさえも、もしかしたら既にいなかった。ましてや2022年の世界には「君たち」なんていやしない。

 

 

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ヌードの夜

 

 現代のアメリカで、体毛の意識的な除去ほど当たり前と見なされている習慣はない……最近の研究によると、アメリカ人女性の99パーセントはみずからの意思で脱毛している。定期的に脱毛している人は85パーセントで、なかには毎日という人もいる。今のところ、対象となる部位は脚や腋、眉、鼻の下、そしてビキニラインがごく一般的。……2008年のある調査によれば、不要な体毛を剃る(比較的安価な方法)というアメリカ人女性は生涯を通じて、ムダ毛を処理するためだけに平均1万ドル以上のお金と丸々1カ月を費やすことになるという。月に12度ワックス脱毛する場合は、生涯で23000ドルを費やす。……

 このように体毛を忌み嫌うようになった主な原因は、何だろう? これまでの歴史的研究を見ても、あまり手がかりは得られない。アメリカにおける美容に関するさまざまな事柄――化粧品や豊胸手術、美容整形、ヘアスタイリングなど――については豊富な研究がなされているが、体毛除去はまったくといっていいほど無視されている。では、何度も繰り返す必要があって費用もかかる――厄介で痛みを伴い、外見を損なうことも珍しくなく、下手をしたら命も落としかねない――この習慣が普及していることを、どう理解したらいいのだろうか?……

 個人の意思や意図といった永遠の謎に関心がないわけではないが、本書では別の方法をとろうと思う。脱毛するという選択について検討するのではなく、そもそも体毛は誰にとって、どういった点で問題になるのかを示してみたい。そんなふうにさまざま選択肢の歴史をたどることで、誰の苦痛した体験が問題となり、誰の苦痛が排除されるのかが見えてくるだろう。

 

 時は18世紀、先住民をめぐってアメリカでとある論争が戦われた。テーマは体毛、彼らインディアンが概ね示す滑らかな肌は、ヨーロッパよりの移住者たちの関心を大いに惹きつけた。たかが髭や体毛の濃淡、されどこのコントラストはかのトマス・ジェファーソンをも悩ませる、当時の国論を二分するほどの巨大トピックへと発展する。というのも、「自然界の秩序に関するこういった疑問には、政治的秩序の問題が必然的に関わっていたからだ。つまり、インディアンはヨーロッパ風の生活様式に転向させることができるのか、それとも本質的で変更不可の違いによって同化は不可能なのかという点だ」。一方では、その体毛の薄さが単に日ごろからのトリートメントの結果に過ぎないことをたやすく見抜いて指摘する声もあった。しかし、彼らと自分たちとを絶対的に隔てる何らかの説明関数を欲していた入植白人の眼には、体毛という視覚的に露わな何かは、たまらなく魅力的に映ってやまない。

 

 この論争をひもとくにあたって決定的な人物がまもなく登場する。チャールズ・ダーウィンという。

 体毛は彼を混乱に引きずり込まずにはいない。「体毛の存在自体は確かに、ヒトは『サルのような生き物から進化した』という主張を裏づけているように思われた」。この観点に立てば、体毛の希薄化こそが進化の目に見える証と捉えられて然るべきところだろう。しかし、ダーウィンはその困惑をためらいなく告白する、「体毛がないのは不都合で、暑い気候においてさえ、身体にとって害になることもある。特に雨天のときなどは、ふいに肌寒さに襲われるからだ。……むき出しの肌がヒトにとって直接的な利益になると考える人はいない。ゆえに、ヒトの身体から体毛がなくなったのが自然選択によるとは、とても考えられない」。

 今日的な通説として私が知る限りでは、保温性をトレード・オフに薄い体毛が排熱性を高め、結果として、他に類を見ない持久力を助けている、という仕方でどうやら説明が与えられているらしい。

 しかし、当時の科学者にとっての関心はそんなところにはなかった。つまり、彼らは体毛の濃淡を「性的倒錯」や「精神錯乱」のシグナルとみなした。C.ロンブローゾの申し子たちは皆、この官能に惹きつけられた。女性における「多すぎる体毛は犯罪的暴力や『強い性的本能』と同じく、並外れた『獣のような激しさ』と相関性があるのは自明のことだと述べたのだ」。

 

 以下、あくまで個人的なインプレッションとして記す、評としての妥当性は何ら担保しない。

 本書は終盤へと近づくほどに失速する、というのも、「個人の意思や意図といった永遠の謎」への推測を巡らせることをあえて回避するのだから。その理由は、筆者が何ら隠すことなく言及するように、ミシェル・フーコーに他ならない。言われてみれば、タイトルからして彼の支配下にあることは明白だった。なぜかなんて分からない、調べようもない、けれども事実として、とりわけ女性たちは「生政治」の赴くままに、ワックスやレーザー脱毛、果ては遺伝子操作へと動員されていく、そうした同時代的現象の観察に本書はひたすらに紙幅を費やす。

 もちろん、このアプローチの有為性についてはいかなる異論の余地はない。それは例えば犯罪者による動機の告白になど実のところ何ら耳を傾けるべきものなどなくて、その者の属する各種セグメントと当該行動の統計的な相関性こそがほぼ唯一の圧倒的な説明をもたらしてしまうように。確率論の骰子一擲の退屈な実演の他になすべきものを持たないすべて人間にいかなる内面をも措定すべき理由は与えられていない。人々が現に各種の除毛に金を落としている、この事象を消費性向の計算の他にいかなる言語で論じる必要があるだろう。

 そしてその動員の作法は、異なる文脈の相から覗けば、しばしば呪術的な見え方しかしない。

 古い文献をたどっていくことで、そのコンテクスト下におけるパラダイムの非自明性が暴露されていく、そのアプローチはただし、こと同時代を対象にすると、読み物としてしばしば極めて退屈なものとなる。なにせ、ほとんどが見知った光景なのである、良くてせいぜいが業界もののルポルタージュ、悪い言い方をすれば新味を欠いた記事スクラップの寄せ集め。一世紀前のX線を用いた施術に対して目を覆わんばかりに戦慄を覚え、しかし今日のレーザーによる除毛のダメージには、まあ、そんなことも起きるでしょうね、とやけに冷静に読み飛ばす。このスタンスの差は、単に科学的リスクの深刻度に由来するものではない。

 私たちがダーウィン狂騒曲を好奇の目をもって眺めるように、百年後の眼差しからはエステサロンの隆盛も「生政治」の特殊性を前提とした文化人類学的な関心を惹きつけるのかもしれない。しかし、今日の私にとっては、体毛がどうやら忌避されるものだということを実例つきで見せられても、うん、知ってる、でしかない、無論、美容へと動員される人々が自らの「生政治」メカニズムを言語化するいかなる術をも持たないことを踏まえた上で。もっとも、たとえ言説を追いかけたところで、広告戦略分析の域を超えるものはおそらくは打ち出されることはなく、マス・マーケティングのサンプルを並べる以上のことができるとも思えない。

 すべては因果の取り違えでしかない。体毛が敬遠されるから美容産業が栄えるのではない、美容産業の繁栄から体毛への嫌忌が推定されるに過ぎない。

人倫の形而上学

 

 それは野放しのハードドラッグがもたらす、ごくありふれた日常の一コマ。風采の上がらない中年男が、贔屓の野球チームが見どころなく敗れた腹いせに自棄酒を煽り、酔いに任せて自販機を蹴りつけ、さらに止めに入った店員を殴りつける。

 ところが、現行犯逮捕されたこの彼、自称スズキタゴサクが取り調べの席で妙なことを口走る。

「ただわたし、昔から、霊感だけはちょっと自信がありまして」

 程なく男の「霊感」通り、秋葉原で爆発が起きたとの報が届く。

「そして私の霊感じゃあここから三度、次は一時間後に爆発します」

 果たして東京ドーム近くにて「霊感」は再び成就する。

 もしや超常現象か、などと真に受ける者はいない。どこからか噂を聞きつけた警視庁から刑事が送り込まれる。古典的な落としのテクニックで正面からこの「文無しで自堕落で良心が麻痺した中年男」の口を割らせようにも、のらりくらりとかわされて終わるのは火を見るよりも明らかだった。ところが、スズキの方から妙なゲームを提案してくる。

《九つの尻尾》、「とても簡単な遊びです。いまから質問を9つします。刑事さんはそれに答えてくれたらいいです。そしたら最後に、わたしが刑事さんの心の形を当ててみせます」。

 向かい合う刑事は算段を弾く。「ここでコミュニケーションの幅を狭めるのは得策ではない。対話を深め、情報を引き出す。そう決断した以上、粛々と付き合うまでだ」。

 

 そのゲームに乗った刑事は、やがてスズキの思惑通りに現れた自身のグロテスクな「心の形」を前に愕然と「尻もちをついた。もう、何も考えられない」。

 別のある刑事は常日頃から「満員電車でゲップするおっさん、コロンのきつい女、コンビニで箸を入れ忘れる金髪のニイちゃん。どいつもこいつもアメリカ毒トカゲに咬まれちまえって心から願ってる」。

 また、ある刑事は、いつしか自分から「ふつうの正義」が消え失せていることに気づく。そうして日々を「決められた手続きを決められた仕様でこなす。与えらえた指示に従う。適当に力を抜」いてやり過ごす。爆弾テロを前にしてすら「不思議なほど、憤るものがない」。

 爆風に巻き込まれた同僚を前にある刑事は思う。「公園の被害者だと? そんなのはどうでもいい。ほっておけ。それより矢吹を助けてくれ。お願いだから」。

 すわ我が子が爆発に巻き込まれたら、とある刑事は想像をめぐらせずにはいられない。「自分が警視総監だったら、あるいは長官だったら、すべての警官を娘の捜索にまわすだろう。あとから浴びる批難など関係ない。どれだけ怪我人があふれていても、治療が渋滞を起こしていても、権力を総動員し病床を確保しておくだろう。どんな怪我にも対応できるよう、医師も看護師も待機させ、手術室も貸し切りにして」。

 

 誰しもが、少なからず思っている。

「いま、この街に隕石が落ちてしまえばいいのに」、と。

 そして、セグメントにより規定された確率に促されるまま、誰かしらは令和x年のテロリズムの実行へと至らずにはいない。まさか彼らローンウルフはスズキタゴサクよろしく、サタンやメフィストフェレスの系譜に沿った誘惑を人々に向けて突きつけることなどしない、クイズをもって犯行を予告したりもしない。手の込んだ爆弾をこしらえることもなければ、毒ガスを仕込んだり、銃を密輸したりもしない。皮肉にも事実は既に教えてくれている、ジョーカーになりたければ、トラックで人ごみに突っ込むなり、ガソリンに火を放てばいいのだ、と。その大半はある日突然、特定の誰を狙うこともなくノープランで包丁やナイフでも振り回す。自殺願望の一表現としての「もういいや」を超える動機など、いくら問われても、彼らには答えようがない。

 暴挙を受けて、この箱庭世界においても、メディアとやらは被害者をめぐる安っぽい感動ポルノを垂れ流すだろう。そうして消費者たちは怒りに駆られる、こんな犯人など殺してしまえ、と。彼らはその瞬間芽生えるだろう自らの義憤や善良を信じて疑わない、しかし実のところ彼らが表現しているものといえば、せいぜいが「ゲップするおっさん」や「コロンのきつい女」へのインスタントな憎しみと同種のものでしかない。

 なぜなら、両者は所詮、合わせ鏡に過ぎないのだから。

「彼らには、自分しか存在していない。自分と自分以外はすっぱり切り離されていて、透明な壁ができていて、だから他人も、社会も、未来も、ありがたみなんかこれっぽっちもないんです」。

 そこに同情や共感なる語の余地はない。

 ネタバレどうこうを言う前に、トリックや真相というミステリーとしての基本要素など、少なくとも私にとってはサブ・ストーリーの域を超えない。この群像劇が鮮やかに描き出しているのは、液晶という名の水面を睨み続けることしかできない、「自分しか存在していない」現代版ナルキッソスたちの哀れな将来に他ならない。

 

 筆者は辛うじての隘路を本書に刻む、すなわち「差出人不明の命令」を。

 おそらく、その事態はエマヌエル・カントの定言命法に限りなく似る。

 誰かのために、何かのために――感性をもって縛られた現実から引き出されるかくなる倫理など所詮、条件づけが解体されて失うものをもはや持たない「彼ら」の世界では無効化を余儀なくされる。

 誰だって知っている、「彼ら」には目的どころか手段としてすらみなされるべき論拠などひとつとしてないことを、すべて現実などいかなる参照にも値しないことを。だからこそ、神をでっち上げることすらできないこの時代に、理性に基づく想像力から組み上げられた麗しき虚構をクズすぎる現実へと落とし込むことをもって、その現実を少しでもまともなものへと近づけるべく粉骨砕身する。だからこそ、「差出人」は顔を持たない、名前を持たない、具体なき「不明」な存在であらねばならない。

 

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