タイガーズ・ワイフ

 

 ビーターによると、母さんは1988818日午後235分ちょうどに、53軒からなる村を見下ろす丘にあるいちばん背の高いスモモの木の上で啓示を受けた。それは日々、鍋やフライパンを洗う音が木立まで響き、けだるさを吹き飛ばす時間だった。まさにそれと同じ瞬間、ソフラーブは目隠しをされ、後ろ手に縛られたまま絞首刑になった。裁判は行われないままの処刑だ。翌朝、数百人の他の政治犯とともに、テヘランの南にある沙漠に掘られた細長い穴に集団埋葬されることになるとは、本人も思っていなかった。墓には何の印も墓標もなかった。数年後に親戚が現れて墓石を小石で叩き、「唯一神の他に神はなし」と唱えられると厄介だからだ。(中略)

「世間の人にとって人生は、新年〔イランでは春分の日〕の前と後に分かれているのかもしれない。それか革命前と革命後に。でもわが家の暮らしは、アラブ人来襲前とアラブ人来襲後に分かれている」。あの出来事のことを母さんは決して“火事”とか“火災”とは言わず、いつも“アラブ人来襲”と呼んだ……。母さんは今でも、彼らがやって来て火を点けたこと、略奪して人を殺したことを強調したがっている。ちょうど1400年前と同じように。

 

「わが家」が住まうのはホメイニ革命後のイラン、テヘランにおける“アラブ人来襲”を辛うじて逃れて辿り着いた辺境の地ラーザーンにすらも、その数年後、魔の手が伸びる。父が持っていた「間違った本! 神に背き、クルアーンに反する本! 革命に反対する本!」は片っ端から焼き払われた。ゴーリキーも、プラトンも、ホメロスも、シェイクスピアも、カフカも、クンデラも、「声の一つ一つ、本の一冊一冊が私たち5人家族の肉体と魂の一部になっていた」その何もかもが、ことごとく灰燼に帰した。

 途方に暮れて一週間が流れ、そして父は言った。

「私たちは書くことを始めなければならない。(中略)書け。覚えていることを全部書け。小説に出てきた登場人物、恋愛関係、戦争、平和のことを。彼らの冒険、憎しみ、裏切り……。本を読んで覚えていることを何でもいいから書くんだ」。

 

 果たして誰が言い出したのか、人は二度死ぬ。一度目は肉体の死をもって、二度目は他者からの忘却をもって。

 このテキストの人物たちにとって、時に「死にはいいことがたくさんある。突然体が軽く、自由になり、死、病気、裁き、宗教がもう怖くなくなる。大人になる必要もないし、人と同じ人生を送らなくてもよくなる」。なぜならば、彼らにとってのひとまずの「死」は、件の一度目の死に過ぎないから。記憶をもって永らえる彼らに言わせれば、「死の感覚でいちばん大事なのは、知りたいと思ったときに何でも知ることができるということだ」。

「死」とはすなわち、「肉体と魂の一部」、書物の寓意として表れる。

「私たち」には、祖先より引き継がれる秘蔵のトランクがある。「私たちの一族はみんななかなか死なない」、ゾロアスター教徒である彼らが生きた証を伝えるそのトランク。中に収められているのは「預言者の欺瞞と無益さ」を綴った手書きの2冊、それを著したという廉により、10世紀の彼もまた、イランの地を追われた。

 抵抗者たることを宿命づけられた一族は、ひたすらに目撃し続けた、「あらゆる反逆を吸収し、自分の中に取り込み続ける」その姿を、誰しもが同じように誰かを殺すその歴史を。体制は時代時代で入れ替わり、しかし、それは単に粗製乱造品のその顔を入れ替えたというに過ぎない。すべて人類史とは、コピペのためのコピペに過ぎない。

 本書は時に幽霊によるささやかな抵抗を試みる。父が拷問にさらされれば、「私」は「明かりを消し、男の身体を引っ掻き、シャツを破った。それから顔にパンチを浴びせ、壁めがけて男を椅子もろとも投げ飛ばした」。ホメイニは、ただひたすらに「どうして?」を浴びせかける少年の幻影を前に、「私は独り言を言うときには獰猛な独裁者だったが、対話をするときにはただの強情っぱりで気取った理不尽な子供――顎髭を生やした子供――だった」ことを悟り、そして絶命する。

 これを「空想」にしないために刑事権力はある、法廷はある、民主主義はある。

 もっとも、万人の万人による闘争に終止符を打つリヴァイアサンによる刑罰が、死んでも死に切れぬ無名の人々の義憤が、しかし現実において執行されたためしがないことくらい、そしてこれからも執行されることがないことくらい、誰だって知っている。天網恢々疎にして全漏れ、事理弁識能力なき彼らが何らの葛藤を味わうこともなく天寿を全うしていくことくらい、誰だって知っている。あるいは彼らの中には討たれた者もあるかもしれない、しかし歴史が教えるに、討った者のことごとくは所詮同じ穴の狢、討たれた者のロジックをそのままトレースするに過ぎない、ゆえに世界の何が変わることもない。

 量産型の特性は、同じことを繰り返すこと、同じことしか繰り返せないこと。そんな彼らによって営まれる「この世は危険だから、生まれてきた子供がかわいそう」。

 それでもなお、生まれてしまった子どもにはせめて、「人生がこれほど欠陥だらけで平凡なときには、空想の力で現実に元気を与えて」もらう精神の自由、ヴィルヘルム・テルが物語的産物でしかないことを知悉した上で享受する自由、別なる未来を構想する自由くらいはある。

 彼らが劣化コピーをもってバックアップを取り続けスクリプトを反復するように、「私たち」は「書くこと」で生命をつなぐ。

 

 そして肉体にも多少の自由はある。

 作中、とある女性が齢三十にしてはじめて「自然な体の欲求に従」う。「寝室の扉に鍵を掛け、リチャード・クレイダーマンのピアノアルバムを収めたカセットテープをステレオにセットし、イーサーのきれいな手と日焼けした顔を思い浮かべて体を愛撫した。かつてない興奮を味わいながら、恥ずかしげもなく服を一枚また一枚と脱ぎ、ひんやりしたシーツを体で感じた。身をよじり、むき出しの肩と腕にキスをし、噛み、30年の生涯で初めて絶頂に達したときには、悲鳴を抑えるため必死に噛んだ枕が破れた。全身が汗に覆われ、脈動した」。

 リアルを果てしなく拡張したポルノがインスタントに入手できるこの時代に、これしきの「オルガスム」描写が誰の欲情を誘うこともない。しかし、ただこれしきのヴィータ・セクスアリス表現すらも許されなかった時代があって、それどころか性を享受することすらも許されなかった時代があった。そして今なお、これしきの「オルガスム」を抑圧せんと望むクズどもは確かにいる。

 ほっとけ、バカ。

 政治犯として命を絶たれ街をさまよう幽霊たちはやがて、たとえ「殺人犯を殺しても事態は一向に改善しないと気づ」く。そして間もなく、「泣いて……泣いて……泣いた。彼らは愛する人と食事をともにできないことを泣いた。ハーブシチュー、肉とナスのシチュー、鶏肉とクコの実が入ったピラフを食べたかった。家族と一緒にくつろいで笑いたかったし、家族のキスやおやすみの言葉が恋しかった」。

 好きな誰かと食卓を囲むこと、ベッドを共にすること、すべて「書くこと」の根底に横たわるのは、ただこれしきの幸福にすぎない。「この世は危険だから、生まれてきた子供がかわいそう」、そんなことくらい分かり切ってなお、これしきの幸福の果実として時に生まれ落ちるだろう誰かの記憶の中に住まい続けることをどうしようもなく求めてしまう。

 だからこそ、「泣いて……泣いて……泣い」て、書いて……書いて……書く。

 

 かつてJ.S.ミルは書いた、満たされた豚であるよりは満たされぬ人間である方がいい、満たされたバカであるよりは満たされぬソクラテスである方がいい、と。

 殺すより他に使い道のない豚とはすなわち殺すにも値しない豚、かくしてやつらはのうのうと生き永らえる。イランも日本も変わらない、世界は豚のためにある。

 でもせめて人間には、愛する誰かとともにグッド・ルーザーに甘んじ続ける自由がある。豚どもがそんな自由を知る日など決して訪れることはない。

 

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表紙詐欺

 

 2021年のある日、なじみの古書店からカタログが届いた。……

 今回は大きな買い物をしてしまった。郊外住宅地の売り出しチラシが大量に出品されていたのだ。写真を見ると、ほとんどが神奈川県のものだ。全部で40万円以上する。……

 しばらくすると商品が届いた。……パックを開くと、薄っぺらいザラ紙に赤や青のインクで印刷された、いかにも昭和30年代(1955~64年)のものと思われるチラシだ。……

 私は東京圏を中心に郊外の研究をながらく続けてきたが、東急多摩田園都市とか多摩ニュータウンといった大規模で有名な住宅地は研究したものの、個別の小さな住宅地まではまったく研究していない。資料がないからだ。だからこそ今回のチラシの発見は貴重なのだ。

 

 まずはこのいかにもいかがわしさ全開のパッケージである。

 中身をめくれば、いかにもそそる描写が早速展開される。「チラシには『東白楽駅前現地案内所』とか『反町駅前現地案内所』とか、『坪3000円』とか『商店街至近』といった文字が並んでいる。しかし、肝心の土地の所番地が書いていない。……/『○○駅前』『○○駅〇分』『現地案内所』という文字を見たら、その駅から〇分のところで土地が売られていると思うが、冷静に考えるとそうではない。まず〇〇駅前の現地案内所に集合し、そこから『○○駅〇分』の土地までクルマに乗せて連れて行くのだろうと推測された」。

 どうにもニヤニヤを禁じ得ない。今とは比べものにならないほどに不動産取引や誇大広告の法規制が緩かった時代に、折からの住宅供給不足から来る売り手市場が展開されているとなれば、後は野となれ山となれのデヴェロッパーによって繰り広げられた文字通り無法地帯の悲喜劇を期待せずにはいられないのが人情というものではないか。そこにはきっとバブル期の原野商法も裸足で逃げ出すような――私のYouTubeのリコメンドってそんなのばっか――荒み切った夢の跡が広がっているに違いない。

 

 巻末に付された売り文句からは今日のタワマンポエムも真っ青の壮麗さが漂わずにはいない。

「慶長以来四百年間土に生きてきた私達のたった一つの願い」

「一人の宝を万人の宝に!」

大自然を背景に四方の香りも高く夏は涼風、冬は温暖、皆様の御要望にピッタリマッチするオールデラックスの文化住宅地です」

「工事中より絶賛を浴び―始めて理想と現実の一致を見た」

 腹筋崩壊の準備は万端に整った。

 

 が、本書が訪ねて歩く光景は、思いのほか健全な住宅地のそれなのである。

 取り上げるエリアといえば、上大岡、戸塚、相模原に東大宮、検見川……と今改めて振り返れば、決してそう悪くはない顔ぶれ、掴まされたという印象は一向に浮かんではこない。

 確かに写真を見れば、少なからぬゾーンにおいて勾配がきつく、終の棲家とするにはかなりタフには思われるが、そもそも平野面積が20パーセントにも満たない国土に住宅地を求めていけば、丘陵地帯に手を広げざるを得ないのもまた事実。当時の開発業者に崖崩れや水害のリスクをマネジメントする技術があったとは思えないし、自治体によるライフラインの整備も未熟で、鉄道整備などにしても今日と異なるものであったことは想像に難くはない。

 しかし総じてみると、どこをどうつついても阿鼻叫喚の地獄絵図には程遠いのである。

 

「それぞれの家がそれぞれの事情に従って、たとえば子どもの成長に合わせ、一家の年収の増減にしたがって、増改築をしたりしなかったりして現在がある。……

 思えば歴史的に見て、こうした柔軟な住宅というものを庶民が買えて、増改築できた時代というのは、日本では昭和20年代後半から40年代末くらいまでの、ごく短い期間だけであろう。それはまさに高度経済成長期であり、多くの人が自分の家を買うことができた時代だからこそあり得た住宅の形、住み方の形であろう。

 ところが昭和50年代以降くらいから、住宅は完成品を買うものになった。最初から容積率一杯に建てられた二階建ての家を買うようになったのだ。それは、家を買って住みこなしていくというよりも、家が自動車や家電のようにただ買うだけの商品になってしまったように思える。家に人が合わせていく時代になったとも言える。そこには成長とか変化とか可変性とか柔軟性とか、あるいは個性といったものがあまり感じられない」。

 限られた所得の中で人々は郊外に家を求めた。しかし昭和30年代をクローズアップした本書から広がるのは、アメリカをモデルとしたスプロール化とは似て非なる光景だった。というのは、この時代の日本における郊外が、モータリゼーションを自明の前提とはしていなかったこととおそらくは深く関係している。

 例えば筆者は船橋の夏見台に「団地を単なる『住宅地』ではなく、『町』としてつくろうとしていたことの表れ」を見る。当時の住宅地図を見れば「団地といっても商店がたくさん含まれて」おり、「商店の業種は肉屋、魚屋、八百屋、食品店、米屋、パン屋、揚げ物屋、乾物屋、ふとん屋、電器店、燃料店、畳屋、印刷所、クリーニング屋、床屋、美容室、牛乳店など。飲食店ではそば屋、天ぷら屋があったようだ」。そこから浮上するのは、ファスト風土ならざる、歩いていける、顔の見える「町」の姿、つまりは自動車によって失われた何か。

 あるいは埼玉の三和町から読み取れるのは、移り住んだ「この住宅を“故郷”と思い定めた住民たち」の姿。自治会で金を出し合って水路沿いに250本ものサクラを植樹して並木道を整備し、緑地もやはり自治会によって広場化されて町内運動会や盆踊り大会が催され、これまた同じく自治会の世話で希望者が秩父に墓地を買い、シーズンになればチャーターしたバスで墓参りする。同調圧力隣組紙一重、しかしここには、“故郷”のことは“故郷”で決める、わたしたちのことはわたしたちが決める、そんなタウンシップの萌芽が確かにある。

 かつて欧米人にウサギ小屋などと揶揄された狭小な住宅であっても、庭先に配された植物は歩行者に季節の華やぎを刷り込まずにはいなかっただろう。翻って、マンションのベランダにゼラニウムシクラメンの鉢植えを飾ってみたところで、壁によって隔てられた他の住人はそんなものがあることにすら気づきようがない。仕切りの中で完結して外部を持たない。裏しかないからおもてなし、私たちはこの表紙の邪悪さをむしろ現代のすべての商取引にこそ疑わずにはいられない。顔すら見えない互いを騙すのに、誰が良心の呵責とやらを覚えるだろう。

 ストリートはただ通り過ぎるための場所じゃない、この足で立ち踏みしめるための大地なのだ。

 

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酒が飲める 酒が飲める 酒が飲めるぞ

 

 アルチュール・ランボー1854~1891)は、19世紀半ば、フランス北東部アルデンヌ地方の田舎町シャルルヴィルに生まれた。父親は軍人、母親の家系は、小地主階級の農民であった。父親の所属する連隊は家庭から遠くにあり、両親は不仲だったようである。そのためもあって、アルチュールの少年時代は、あまり幸福なものではなかった。

 アルチュールが幼い頃から、父親は家に寄りつかなくなり、厳格な母親の手で育てられた彼は、見かけはいかにもおとなしそうではあったが、実は、反逆心を内に隠す、油断のならない子供であった。その一方では、学校の誉れともいうべき秀才で、詩を書くことに夢中になっていた。

 やがて、1870年の普仏戦争で学校が閉鎖されたのを契機に、ランボーは高等中学の最終学年で学校をドロップアウトしてしまい、学校が再開されても、もう戻らなかった。以後は長髪に陶製パイプを咥えたボヘミヤンに変身。詩人としての人生を歩み始める。……

 ランボーほど、まっしぐらの、しかも不器用な生き方をした人間は稀であろう。普仏戦争パリ・コミューンの混乱の時代、彼は詩の世界に革命を起こそうとして文字どおり一身を犠牲にした。……

 一等賞をほとんど独占するほどの秀才ランボーは、……学校には戻らなかった。そして、パリ、ロンドンでの苦闘の末に、詩を棄て、コーヒーや武器の商人として、また未開の国の工業化を夢見る奇人として、死ぬまで主にアフリカをさまよった。

 

 近代革命後のフランスにあってさえも教育といえば、一に宗教、そして二に古典、わけてもラテン語だった。「模範となる文章の、書き取りと朗読、そして暗唱である。単語の綴りがちゃんと書け、ちゃんと音読できて、……名文が自由自在に引用でき、空で言えること。さらにはラテン語で文章を書き、詩も作った。その能力が何より大切であって、場合によっては生徒の将来の階級を分けた」。

 あたかも森林太郎少年が突然にスター・システムの階梯を飛び降りたようなもの、逸材を逸材たらしめたまさにその詩のために、アルチュールは自らのキャリアパスを投げ捨てて、考える脚として単身パリへと乗り込む。

 そして彼は旅の途上、「見者の手紙」を知人に向けて書き送る。造語あり、俗語あり、しかしそこには「前代未聞」の「異様な音とイメージ」があった。

「すべて古代詩歌は結局ギリシャ詩、つまり『調和ある生活』に帰着します」、その麗しき揺籃に育まれた秀才はしかし同時に見てしまった、「すべては韻を踏んだ散文、遊び、無数の愚かな世代の衰頽と栄光の繰り返し」でしかないことを。韻律のための韻律、ルールのためのルールをただ愚直に踏襲するだけの者が名手、大家ともてはやされた末、その「遊戯にはカビが生えています。それが2000年も続いたのです!」。

 今や彼が目指すべきは「見者voyant」を置いて他にない。「詩人たらんと志す人間の第一の修業は、自分自身を認識すること、丸ごと認識することです。彼は己の魂を探求し、検査し、試練にかけ、識るのです。……要は、怪物的な魂を作り上げることなのです。……見者であらねばなりません、自らを見者たらしめなければならないのです」。

 そして彼は「忘我の船」に乗り込んで、「未曾有の混沌tohu-bohu」へと漕ぎだす。それはデカルトの方法的懐疑に限りなく似て、しゃらくさい歴代の「善き詩人の御連中」に唾を吐きかけ、「未知」を求めてさまよって、それでもなお、韻律は残り、音節は残る。エリート育ちのランボーは放浪の最中、下層階級の男たちと寝食を共にする。そして見た、古典など触れたこともない、それどころか文字の読み書きすらかなわない彼らをすらも、言語の規則は貫いていることを。「兵隊煙草で気持ち悪っ!/……弾痕弾痕歩兵助兵」と紡ぎ出さずにはいられないことばが彼らにも通っていることを。それは例えば日本語において七五調がどうにも心地よさを催さずにはいないのは、和歌や俳句の大家たちがそう権威づけたからではない、ことばに組み込まれた何かが聞く者を触発せずにはいないためであるように。

 

 言葉の奇抜な跳躍をねらうのは手品師のやることで、詩人のなすべきことではないがね

ノヴァーリス

 

 そしてランボーの場合にはもうひとつ、ボードレールが残った。

 このテキストのひときわの興味深さは、一見すると珍奇な語の組み合わせを前に「考えるな、感じろ」と説くのではなく、霊感だ才能だなどという低スペック御用達の抽象論に逃げ込むのではなく、きちんと時代文脈に即した補助線を与え、それら表現の必然性を汲み取ろうとする、詩との向き合い方をめぐる手ほどきを与えている点にある。

 筆者が『地獄の一季節』を読み解くための糸口にしたのは、「ひさごgourde」という何気ない一単語。かくしてここでもまたボードレールに行き着いた筆者は、さらにその源泉として「アイルランドの奇人」チャールズ・ロバート・マチュリーンへと遡る。

 そしてランボーは、おそらくはその先人たちに導かれるまま、「ハシーシュ」の扉を叩いた。あるいは彼はそこで「イリュミナシオン」を見たかもしれない、『悪の華』に限りなく似た。しかし間もなく、「そうして夢が冷えてくる」、「そんなものは存在しないんだ」ということを知る。

 それは1273年のとあるミサでの出来事、突然の至福に襲われた老境の聖トマス・アクィナスは、日に数十ページを書き上げていたともされる、あの浩瀚にして未完の終生の仕事、『神学大全』の筆を折る。あるいは、ランボーに束の間訪れた「夢」も、そんな体験に限りなく似ているのかもしれない。

 

常に酔っていなければならない。それがすべて、それだけが問題だ。

Il faut etre toujours ivre. Tout est la: c'est l'unique question.

ボードレール「酔いさらせEnivrez-vous

 

 もっとも、実のところは、ひたすらにボードレールの詩の中にしか現れることのない夢想をなぞるよりほかにすることがなかったことが暗示するように、いかに「ハシーシュ」に走ろうとも、「そんなものは存在しない」。ボードレールが描き出した通りの何かが見えたわけでも何でもなく、そもそも「そんなものは存在しない」、だからこそ、ランボーはひたすらにトレースして何かを見たことにすることしかできなかった。Elle est retrouveeなんてしなかった。

「ハシーシュ」だろうと、ヘロインだろうと、コカインだろうと、エクスタシーだろうと、たかが麻薬ごときで世の中が迷信するほどの何が見えることもなければ、アルコールほどには人間をやめさせてもくれない。効用といえばせいぜいが、オーバードーズで天国が見えるかも、その程度の話でしかない。無知無能に特有の妄想に憑かれて薬物中毒者の像をでっち上げ続ける世間という名のクズどもほどに、その常習者たちは人間をやめてなどいない。

 

 この冷め切った世界は永遠に「夢」など持たない、「そんなものは存在しないんだ」。

 すべて詩人たるもの、見者たるもの、この他に何ら語るべきことばを持たない。

 

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イエスタデイ・ワンスモア

 

 本書が探るのは、近代日本の歴史における主要な出来事や人々の意識を変えてきたイデオロギーの形成をうながす媒体として、またそのような事件や思想の隠喩として、犬が果たしてきた役割である。……

 この本は、犬――本物も想像上のものも含めて――の考察を通して人間と動物と社会構造との関係や、人がそれらのあいだの相互介入を描くのに使ってきた思想的様相を明らかにすることによって、普通の歴史家の視点とは異なる一瞥を近年の歴史にそそぐ。西洋の(のちには日本の)帝国主義を促進するためであったり、政治的・階級的統制を行うためであったり、国民や人種的アイデンティティを定義するためであったり、人々を戦争に動員するためであったり、あるいは消費者のステータスシンボルであったりと、さまざまなかたちで使われてきた犬を検証することは、その伴侶である私たちについて多くのことを教えてくれる。私たち自身をよりよく理解するもっとも優れた視点のひとつが、自分以外の他者である動物のことを真剣に見つめることで得られるのではないだろうか。

 

「社会ダーウィン主義者による人種的文化的優位の想定は、飼いならされたものと野生のもの、文明と野蛮との二項対立を強化し、それを植民地対非植民地の図式に結びつけた」。

 この「図式」、そのまま開国後の日本においても適用された。

 いわゆる「横浜絵」、つまり何もかもが物珍しい異邦人を扱ったそれら版画には、彼らに寄り添うようにしてしばしば犬が描かれた。「気性もよくおとなしくて静かな」、主人に忠実に従う「飼いならされたもの」に対置されるのは無論、「野生のもの」としての在来種。今となっては地域犬とでもカテゴライズされるかもしれない、だが当時にあっては特定の飼い主を持つでもなく、なわばりの中で餌づけされ、さりとて誰にしつけられることもないそれらオオカミ崩れは、間もなく狂犬病などの公衆衛生の御旗の下で排除されるべきターゲットとなる。対してcome hereに由来して「カメ」と呼ばれた前者は、万が一にも後者と取り違えて殺そうものなら何をねじ込まれるか分かったものではない、かくして飼い主同等の治外法権を振りかざしてこの世の春を謳歌する。

 

 居住区の西洋人をなぞるように、やがて日清日露戦争のたまさかの成功をもって帝国主義の味を覚えたこの国において、かつて駆除されるべき対象であった「野生のもの」が、「純潔と中世と勇敢の象徴とされ」誉れある「日本」犬へと変貌を遂げる。

 そのアイコンが忠犬ハチ公だった。奇しくもその名が広く知れ渡ったのは1932年のこと、一節には餌を求めて単にルーティーン化していただけ、今となっては真相は藪の中、しかしファシズムの道を邁進する世間がそんな指摘に見向きするはずもなかった、一匹の柴犬によって示されたこの滅私奉公の精神は、時に楠木正成乃木希典にすら勝る、この上なきゆるふわ教化政策として子どもたちへと刷り込まれていった。

 

 それと時を同じくして、キッズを夢中にさせたのが田河水泡のらくろ』だった。

 確かに史実をいえば、その作者の思想的傾向はむしろプロレタリア的であった。「天皇の軍隊を犬の集まりに擬する」不敬を理由に発行停止が命じられもした。

 しかしそれでもなお、「この犬はさまざまなへまをやらかしながらもつねに仲間の犬たちを裏切らず、『忠義の心を片時も忘るべからず』という連隊規則、すなわち軍人勅諭の教えからけっしてはずれることはなかった。……/犬たちは失敗をくりかえすいろいろな犬種の集合ではあっても、日本の軍事力、勇敢さ、優越を例証しており、それに比べて他の動物は進歩が遅れ、弱く、頭が悪いとさえ描かれている。/……大衆文化は……積極的に子どもに犬を好きにさせ、同時にその親密さを利用して軍人になることへの興味を搔きたて、軍国主義を支える価値観を醸成したのである」。

 

 日本精神の体現者としての役割を付された彼らには、やがて単に洗脳装置という以上の機能が期されるようになる。つまりは軍用犬としての。

 もっとも一般家庭で広く飼われた小型犬をいくらかき集めたところで、実戦投入に資するはずもなかった。そもそもが人間ですらも食糧難、物資難のその時代、だとすれば用途は――。「軍用犬として献納するにしろ、単に皮と肉と体液を提供するために犬を犠牲にするにしろ、この運動に共通してひんぱんに使われた表現は『犬死に』である。……本土決戦に備えて政府や軍部の指導者たちは、人々に日本の国土を守るために忠誠心を持って戦うことが、死ぬこと自体は避けられないにしても、『犬死に』を避ける道であると諭した。こうして犬は現実にもレトリックの上でも、人が自分の命を捧げる模範として動員されたのである」。

 

 そして歴史は繰り返す、しかもその強度を果てしなく強めたかたちで。

アメリカ文化の影響がこの国を覆うにいたって、犬を経済的な安定と文化的な生活のシンボルと見なす見方は強化されていった。海外に駐留するアメリカ合州国の軍人とその家族が持ち込んだアメリカ国内の風習が、アメリカの家庭生活に犬は欠かせないという印象を強めたのだ」。

 頂点は『名犬ラッシー』において観察される。このテレビ番組は、「誠実、勤勉、家族という冷戦期のアメリカ的価値観を日本の視聴者に紹介しただけでなく、コリーを日本でもっとも人気のある犬種のひとつにのしあげ」た。

 以降も『南極物語』あり、『フランダースの犬』あり、名脇役に犬を配した作品は数知れず、CMに目を移してもアイフルソフトバンク、動物バラエティも花形といえばその筆頭は犬である。

 戦後消費社会、ポップの申し子として、テレビと犬というゆるふわ教化装置が相乗効果を発揮するのはもはや文化的必然だった。「飼いならされた」犬を前に人々もまた「飼いならされた」。

「多くのとくに小型血統犬、または大型犬でさえも多くの時間を屋内で過ごし、かなりの犬が人間にコントロールされた環境以外では生きていけなくなってしまった。……この国に限らず現代の多くの犬は、自然と文化の境界を永遠に渡りきってしまい、完全に飼いならされて文明化してしまったように見える。ますます多くの人間がそうなってしまったように、多くの犬も食べすぎて一日じゅう家のなかにいて運動不足であるために、肥満しストレスに見舞われている。……小型犬は、19世紀の街路や野原を徘徊していた、この国に昔からいたしぶとく小ずるい犬とは似ても似つかない。それに今の小型犬は1930年代と40年代の国家と国民を代表していた『日本犬』や軍用犬とも、身体的にも比喩的にもまったく似ていない。その代わり皮肉なことに、今日の小さな室内犬は、この本が最初にあつかった1世紀半前の日本のシンボルとして見られていた、甘やかされたひ弱な愛玩犬、狆とそっくりなのである」。

 

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みにくいアヒルの子

 

 明治の末に生を享けた芳乃にとってのそれは「綿毛」だった。

「三歳になっても綿毛のようにしか毛が生えてこず、不安を覚えた両親が町医者に連れて行くと、先天性の疾患で手立てはなく、今後も薄いままだと告げられたそうだ。……

 当の芳乃自身は、子供の頃は近所の悪童達に、おい綿毛、やい綿毛と随分ちょっかいを出されたし、二人の姉達や弟の義彦は、皮肉なことに絹ほど艶やかな毛髪の持ち主だったから、娘時代には拗ねた気分を持て余したこともあった。

 器量よしの姉達には降るようだった良縁も、自分のところには全くといってよいほどなく、たまに来たと思ってもどこかに難ありの縁談ばかりで、この相手と結婚するくらいならいっそ蚕に嫁ぐと騒いで両親を困らせたこともある」。

 そうして未婚のまま27歳を迎えた芳乃には、ある支えがあった。養蚕を営む両親を手伝う傍ら、年に一度、4月の農閑期には、「絹糸を片撚りするところから始めて、季節の草花から染料となる植物を見定めて、牛の乳の色に似た生糸を様々な色合いに染めあげ」て、それを自ら機で織る。その「あまりの面白さに食事や睡眠さえもおろそかになり、家族の手で無理やりに寝床まで引き摺られることも珍しくない。熱中の甲斐あってか、ここ数年は反物に随分といい値がつくようになり、三越仕入れ担当も作品が仕上がると必ず見に訪れるようになった」。

 

 かたや平成生まれの詩織にとってのそれはADHDだった。

「詩織は日常生活を営む上での不注意が多く、物事の段取りを組むことや優先順位をつけて同時並行の作業を行うことが極端に苦手だ。……

 30歳:欠陥人間、40歳:欠陥人間、50歳――。……

 これからもずっと欠けたまま生きていくしかない。母に失望されながら、自分でも自分に失望しながら、迷惑をかけた人間に頭を下げて、こんな自分であることに頭を下げて」。

 そんな彼女にとっての生きる糧もまた、機織りだった。

「単純な動作の繰り返しで複雑な織り模様をなしていく伝統工芸に今ではすっかり魅了されている。……

 仕事とのバランスを考え、もっと睡眠時間を確保しなければと思いながら、一旦手をつけるとどうやっても止められない。明け方まで集中してしまい、短い眠りを貪ることが増えていった」。

 もっともこの趣味を同居する母の絹子には隠したままでいる。中学時代の手芸部からしてそうだった。シングルマザーの彼女曰く、「手芸で身の回りのものをこしらえたりすれば、生活苦なのかと勘ぐられ、周囲に見くびられるというのである」。

 そしていよいよ織物の聖地の桐生にて念願の出品がかなわんとするその前日、帰宅した詩織に母は冷淡に告げる。作品は燃えるゴミとして捨てた、と。果たして彼女は家を出た。

「これまでにも家を出ようと思ったことはあったが、自分が人並みにやっていく能力があるとは信じられず、波が来る度に躊躇して見送ってきた。しかし今回はやった」。

 

 以下、ネタバレビューかつブチキレビュー。

 

 本作においては遺伝的な宿命として記号的に設定されているのだろう、薄毛やADHDという障害、コンプレックスを没入できる何かへの果てしなき愛着をもって克服していくふたりの女性の姿を描く、たぶん主題としてはそんなところなのだろう。

 さらにそこに時代的なトピックが追加される。昭和の芳乃においては戦争であり、平成の詩織においては毒親問題であり、発達障害であり、と。

 好きをもって自分の道を切り開く、はずなのに、ところが肝心のストーリー・ラインが平然とその主題を裏切っていく。

 ともに異常なまでの熱情を機織りに傾けずにはいられない、というだけの共通点で時代を超えて結ばれた女性の姿を並行させて追いかけていくのかと思いきや、両者の行く末はまもなく交差する。何のことはない、このふたりは同じ一族に身を置いていることが明らかにされる。直接の血のつながりこそないものの、ファミリー・ツリーによって未来を予め約束されたヒロインの貴種流離譚へと本書はめでたくも着地する。

 だとすれば本書が明確に伝えていることには、ADHDが血の定めであるのと同じく、数多あり得ただろう選択肢の中から選び取られた織物へのアタッチメントも詰まるところは血の定めによるものであり、従って生まれつきの束縛からはいかなる仕方でも決して人は逃れることなどできない、と。言い換えれば、たまさかブラッド・ラインによって解放のルートを与えられた主人公以外には救済の道などどこにもない、と。クラフトマンシップの霊感の声を聴くことができるのは唯一親族に限られる、と。

 好きという思いは何を克服させてくれることもない、どころかその感情すらも予定説的に選ばれた者に向けてプログラミングされたものでしかない、らしい、本書のロジックを忠実になぞれば。

 

 モーセオイディプス以来の定番、『スター・ウォーズ』といい、『ブラックパンサー』といい、世の中はつくづくこの手の王子様、お姫様に媚びへつらうのが大好きだよね、とふて寝しをかましつつ、対照的な小説を少し前に読んだな、と思い出す。

 永井みみ『ミシンと金魚』。

 この小説において、貧困家族に生まれ落ち、そしてそこからついぞ抜け出すことができなかった老境の主人公が示すのは、痴呆を来してなお自らに刻み込んだ文字をもって、せめてもの意志、自らが生きたというその証を表現しようとする、その姿。知をもって血を凌がんとする、その姿。

 ある面でリアリティをいうならば、むしろ『世はすべて美しい織物』にこそ優位があることは認めざるを得ない。文化的資本格差が埋まる機会など現実世界にはそうそう転がってはいないし、幼くして成功体験や自己肯定感の調達に失敗してしまった層にとっては、食欲や性欲や暴力衝動といった脊髄反射系ポルノ消費を超えて、何かに対してのめり込むような愛着を寄せることすらもひどく難しいのは紛れもない事実なのだから。

 なるほど確かに、モンペによって翼をもがれた詩織には、血統という一発逆転の魔法の呪文が必要だったのかもしれない。

 持たざる者には――何もない。

 

 ただし時に事実は小説より奇なり。

 知はあまりにしばしば抑圧を軽やかにすり抜ける。

 本作の中では、昭和13年の段階で早くも「パーマネントが禁忌となったせいで、美代子[芳乃の義姉]の前髪からは緩いウェイブが消え」た。

 しかし、飯田未希『非国民な女たち』に従えば、現実の戦禍を生きた人々はこれしきのことでヘアスタイルを諦めたりはしなかった。彼女たちは防空壕の中にすら、石炭のパーマ器具を持ち込まずにはいられなかった。洋装の機能美を知ってしまった彼女たちは、敵性云々との批判をそれとなくかわすような衣服をデザインせずにはいられなかったし、モンペに耐えられるような審美眼を持ち合わせてもいなかった。

「好きな服を着てるだけ/悪いことしてないよ」なんて、プリンセスプリンセスのはるか前に彼女たちは既に歌っていた。そこにおそらく明快な反戦思想などなかった。知なる禁断の果実の味だけがそこにあった。一度知に触れた者は、誰しもに同じ服をまとわせる全体主義のグロテスクを自ずと退けずにはいられない、知なるものをめぐるただそれだけのシンプルなファクトがそこにあった。

 現実を見渡せば、男女の平等には依然程遠く、階級のフラット化も絵に描いた餅にすぎない。

 それでもなお、この腐り果てた今でさえも昔よりもいくらかはまとも、らしい。50年前よりも、100年前よりも、1000年前よりも。

 その功績はすべて知に負う。

 血とはすなわち、稚であり、恥であり、痴であって、ただ垂れ流されるためにある。

 

 ファッションは知を着る。ファッショは知を切る。

 作りたい服を織る、着たい服をまとう。新しい戦中を生き延びて未来を開くための、たかが血ごときに屈することのないしたたかな知のかたちがそこにある、本書が決して知ることのない。

 

 

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