フレンチドレッシング

 

 巻子はわたしの姉であり緑子は巻子の娘であるから、緑子はわたしの姪であって、叔母であるわたしは未婚であり、そして緑子の父親である男と巻子は今から十年も前に別れているために、緑子は物心ついてから自分の父親と同居したこともなければ巻子が会わせたという話も聞かぬから、父親の何らいっさいを知らんまま、まあそれがどうということもないけれども、そういうわけでわれわれは今現在おなじ苗字を名のっていて、ふだんは大阪に住むこの母子は、この夏の三日間を巻子の所望で東京のわたしのアパートで過ごすことになったわけであります。

 

「わたし」が移り住んでからの年中行事ということでもない巻子の上京にはとある目的があった。

「あたし豊胸手術を受けたいねんけども」

 事前に電話でそう聞かされてはいた。しかし、「わたし」は久々に会う姉の姿にしばし絶句する。理由は「巻子の諸々、その全体としての縮み具合であった」。

 みすぼらしく萎れた母に比して、娘の緑子の肉体は成長期前夜に特有の細くしなやかな直線をあらわす、わけても脚の長さはひときわ目を引く。

 そんな親子はかれこれ半年ほど口を利いていないという。より正確には、娘のレスポンスはすべて筆談で行われる。叔母の「わたし」の問いかけに対してもいちいちペンを経由する。

 緑子がすっかり声を発さなくなったのにはとあるきっかけがあった。スナック勤めで糊口をしのぐ母子家庭のささいな口論の最中、彼女はつい言ってしまう。「あたしを生んだ自分の責任やろ」。

 とっさの激情を深く悔いる彼女は、そうして自らに声を禁じ、日々綴る秘密のノートに書きつける。「そのあと、あたしが気がついたことがあって、お母さんが生まれてきたんはお母さんの責任じゃないってことで、あたしはぜったいに大人になっても子どもなんか生まへんと心に決めてある」。

 

 豊胸手術について滔々とまくしたてる巻子を前にして虚空に視線をさまよわせる「わたし」はふとどこかで聞いたことのある会話を思い出す。

 一方の女子が言うことには、「胸は自分の胸なんだし、男は関係なしに胸ってこの自分の体についてるわけでこれは自分自身の問題なのよね」。片やその相手が言うことには「その胸が大きくなればいいなあっていうあなたの素朴な価値観がそもそも世界にはびこるそれはもうわたしたちが者を考えるための前提であるといってもいいくらいの男性的な精神を経由した産物でしかないのよね」。

 乳房と卵子(生理)によって象徴されるだろう女性性はあくまで「自分自身」に依拠したものなのか、それとも女性性とはあくまで男性性の影としての第二の性でしかないのか。

 

 こういった調子で何もかもがあからさまにメッセージ化されていく、寓意性も物語も何もあったものではないこの小説の中で、転機は不意に訪れる。

 出かけたきり電話にも応じない巻子が夜遅くにようやく戻る。かなり飲んできたらしい。

 台所の明かりの下で緑子は洗い物をするでもないのにシンクの水を出しっ放しにしている。たぶん単に水による洗礼、生まれ直し、リセットを象徴させている、という以外にこの行動を意味づける術を少なくとも私は知らない。

 すると立ち上がった「わたし」はなんとはなしに冷蔵庫を開けて「目についたドレッシングの瓶を取りだして中身を流しのなかに捨ててみた」。さしたる理由が提示されることはないこの行動ではあるが、そこに示唆されるメタファーはあまりに露骨である。棒状のボトルからぶちまけられる「その真っ白のどろりとした液体」という描写に精液以外の何かを連想する方がむしろこじつけとしか見なしようがなく、いずれにせよ、めでたく男性性は下水道へと葬られた。

 そのセレモニーの終焉を待っていたかのように、巻子は娘の傍らに詰め寄ると、酔いに任せてか日頃のつれない態度を責めはじめる。腕を掴まれた緑子が振り払うと、たまたまその指先が巻子の瞳に命中する。心配と動揺で緑子は思わず声を発する。「お母さん……お母さんは、ほんまのことゆうてよ」。

 そして次の瞬間、「流しの横に廃棄のために置いてあった玉子のパックをすばやくこじ開けて、玉子を右手に握ってそれを振り上げた。あ、ぶつける、と思った瞬間に、緑子の目からはぶわっと涙が飛び出し、ほんとにぶわりと噴き出して、それを自分の頭に叩きつけた」。つまりは卵子、女性性の象徴をまとわせた緑子はなおも訴える。「胸をおっきくして、お母さんは、何がいいの、痛い思いして、そんなおもいして、いいことないやんか、ほんまは、なにがしたいの、と云って、それは、あたしを生んで胸がなくなってしもうたなら、しゃあないでしょう」。

 注油にもどこか似る、この生理を仮託した通過儀礼を済ませた彼女はさらに自らに向けて語りはじめる。「厭、厭、おおきなるんは厭なことや、でも、おおきならな、あかんのや、くるしい、くるしい、こんなんは、生まれてこなんだら、よかったんちょしやうんか、みんな生まれてこやんかったら何もないねから、何もないねんから」。

 そうして数ヵ月ぶりに娘の本心を聞いた巻子もまた、玉子を手に取り自らにふりかける。彼女もまた萎みゆく乳房に示唆される女性性の衰退をこの行為をもって補完する。父を持たない、夫を持たない、母と子による女性性の円環構造を互いに確かめた上で、緑子にささやきかける。「ほんまのことって、ほんまのことってね、みんなほんまのことってあると思うでしょ、絶対にものごとには、ほんまのことがあるのやって、みんなそう思うでしょ、でも緑子な、ほんまのことなんてな、ないこともあるねんで、何もないこともあるねんで」。

 この直前、緑子は「わたし」から借りた電子辞書を引く。「ジンクス」から「因縁」へ、今ひとつ分からないとさらに芋づる式にあたっていく彼女はふと気づいたことをメモして叔母に見せる。

「もしかして、言葉って、じしょでこうやって調べてったら、じしょん中をえんえんにぐるぐるするんちゃうの」。

 奇祭を終えて彼女たちはやがて知る、「ほんまのこと」もまた、あるやなしやも分からぬままに、「えんえんにぐるぐるするんちゃうの」と。

 少なくとも本書における女性性は、社会構築主義的に男性性から導かれるわけでもなければ、本質主義的に身体性に由来することもない、その答えなど「ないこともあんねんで」と知りながら、血を分けたシスターフッドの輪の中でたまのカーニバルとともにその外延を持つこともなく「えんえんにぐるぐる」し続ける。

 

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らくだ

 

 これは今から40年以上前の昭和531978)年5月に当時の落語協会前会長だった三遊亭円生が、古今亭志ん朝三遊亭円楽立川談志の若手幹部を連れて新団体「三遊協会」の設立を図り、なんと落語協会が、真っぷたつに分裂するという全く予想だにしなかった事件が起こった時のことを描いたものだ。

 それは円丈が、苦節13年やっとなんとか6人抜きで真打昇進を果たし、50日間の円丈襲名披露興行も無事終わった途端の出来事だった。そして円丈は、師匠・円生に従って嫌々ながら三遊協会へ。

 しかも席亭サイドは、席亭会議を開き、新しく出来た三遊協会とは、契約しないことになった。つまり、寄席との契約を打ち切られた新協会は出る寄席がなくなった。なんと50日間、真打披露興行で寄席を廻った円丈は、廻り終わった日から、出る寄席がない。ウソ! そんな話ってアリ? 念願の真打になってこれから寄席で大活躍と思ったら、なんと円丈は、どこの寄席にも出られなくなっていた。ウソだろ?

 

 先代圓楽許すまじ。

 ある面で、本書を要約したければ、この一言で用は足りる。

 テキストの書き口に歌丸‐楽太郎のブックの匂いは欠片もない。終始表明され続けるのは、軽蔑と、軽蔑と、そして軽蔑。

「普通、噺家の社会では相手が先輩だと必ず何トカ兄サンと呼ぶ。ところが、彼を呼ぶときだけ、何故か“円楽サン”と呼んだ。(中略)

 何トカ兄さんという言い方の中には、親しみと先輩としての尊敬の意味が込められてる。結局、俺達兄弟弟子は、彼に親しみも尊敬も感じなかったのだろう」。

 もっともこれしきの人間関係の齟齬のひとつやふたつは誰しもが経験していることだろう。そんな相手を処世術として表面的にやり過ごす仕方にしても、酒で発散するその仕方にしても、世の大半の人間はインストールしている。

 そんな市井と筆者の間に相違があるとすればそれはただ一点、“圓楽サン”と筆者の間に、三遊亭圓生という類稀なるややこしいハブが内包されていることにある。

 単に馬が合わない兄弟子への恨み節だけならば、筆者にこのテキストを書き通させるほどの熱量を催させることもなかっただろう。寄席という場で評価を得る機会すら与えられないという苦しみだけでもおそらくは足りない。協会分裂騒動をめぐる裏事情を期待する世間に向けてのものならば、いかようにも別のアプローチは選べたことだろう。

 しかし、何がかくも激烈に筆を運ばせたかといって、それは圓生という父をめぐる愛情獲得競争に敗れたという屈辱感に他ならない。紛れもなく本書は、亡き師に捧げる歪み切ったラブレターなのである。

 

 その情愛が機能不全に追い込まれる、決定的なシーンがやがて現れる。

 協会を取るか、師匠を取るか、そう詰められて「出来れば戻りたいと思いまして」と本心を明かす。圓生から返ってきた反応は予想外のものだった。

 その時の円生の顔は阿修羅のように見えた。この恩知らず、義理知らずの罵声をただ黙って聞いているのは辛いことだった。それは心の拷問だ。(中略)

 俺は、心のどこかで円生を親父のように思っていた。その親父から今、罵声を浴びせられている。(中略)

 もうこれ以上聞いたら俺の心は死んでしまう。今俺が一番やらなければいけないことは、あの二人の口を止めることだ。(中略)

 罵声を浴びながら戻り、正座をしてから畳に両手をついて、

「いろいろ、わがままなことを言って申し訳ありませんでした……。私も一緒に出たいと思います」

 このセリフを言い終わった時、俺の目には、うっすらと涙が滲んでいた。

 文庫版に寄せたあとがきで筆者は回顧する。今にして思えば、この日に受けた「心の拷問」を癒すために本書は著されたのだ、と、「『御乱心』は、円丈の心の薬だったのだ」、と。

「心が治り、円丈は、三遊亭が大好きで、今も円生を尊敬している。正しく評価できる。入門したことを誇りに思っている」。もとより圓楽など一顧だにも値しない。

 

「俺は、円生を憎んではいない。円生を恨みもしない。ただ円生を許しもしない」。

 本書はこの名文を噛み締めるためにある。

 

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ブレックファスト・クラブ

 

 本は自分の人生を映しだす鏡でもある。だからこそ、かつて本を現実逃避の手段にしていたわたしは、読書会という場を与えられたことで、本をとおして人とつながり、メンバーたちと30年近くにわたって本を語り合ってきた。本について語りながら、実のところはわたしたち自身の人生を語り合ってきたのではないかと思う。同じ本を読みながら、ともに年齢を重ねてきたという信頼感はとてつもなく大きい。この経験はわたしにとって、なにものにも代えがたい大切なものである。

 考えてみれば、だれかに強制されているわけでもないのに、書物の世界を共有したいという思いだけで人が集い、それがこんなにも長く続いているというのは、実に驚くべきことではないだろうか。

 

 ある朝、筆者は新聞の訃報欄で知人の名前に不意に出くわす。かれこれ10年以上のつき合いになる読書会のレギュラー・メンバーのその彼が、さる大会社の元社長であったことを死してはじめて知ることとなる。自宅を行き来することはなくとも、葉書を互いに交わす、つまり住所を教え合うような仲でも、しかし仕事の話となると一転、彼は口を濁してしまうのだった。それを機に検索をかけてみれば、wikipediaにも項目が設けられているほどの一廉の人物でありながら、彼は一貫してそうした履歴を明かそうとはしなかった。

 自らを詳らかにしない、詮索もあえてしない、だからこそかえって話せることがある、長きに渡り維持できる関係性がある、本書から垣間見えるのは、そんな「社会関係資本」(ロバート・パットナム)の実践編。

 

 フランソワ・モーリアック『テレーズ・デスケルウ』に触れる中で、ふと筆者は自らの結婚生活を打ち明ける。

「テレーズにとって結婚は逃避だった。/……わたしにとっても結婚は逃避だったかもしれない。とにかく実家から逃れたかったのだ。夫は文学はまったく関心がない人だった。……本だけでなく、音楽にも美術にも旅行にもなんの関心もない。もちろん、妻のことにも関心がない。夫婦の会話などほぼない。/……やがて、相手に期待することをいっさいやめた。すると気持ちが楽になった」。

 あるいは筆者はこんな話を読書会でもつい衝動的に口にしていたのかもしれない。しかし、こんなプライヴェートを他人に向けて明かすことができたのだとすれば、それはまさにその場が読書会という極めて緩やかな関係性の場であったからに他ならない。

 サマセット・モーム『人間の絆Of Human Bondage』が奇しくも示すように、「主人公は『人間を縛るものbondage』と決別することによって、精神の自由を獲得していく」。まさにこのことが読書会の真髄を表す。井戸端会議や職場といった日常のbondageの中で冷え切った夫婦関係について相談してみたところで、尾びれのついた噂話として消費されて終わることくらい、誰にだって想像はつく。

 しかし、かつて例えば告解という場所がそうあったように、聞き手を持つこと、ことばにすること、声にすることで時に救われる何かがある。それは時に小説家と作品の関係に酷似する。

 

 それとはおよそ対照的な読書会の場面を筆者は切り出す。中高の図書室で司書として勤務しているという筆者が、生徒たちに向けた読書会を企画する。筆者にしてみれば、「同じ学校の生徒だし、同年代なんだからもっとワイワイやってよ」と思う、しかし会はほとんどの場合、弾まない。ある生徒は感想を問われてただ一言吐き捨てた、「あいつら、こえーなと思った」。

 筆者はその原因を読書やディベートの経験の多寡に専ら求める。しかしむしろ、本書の議論を踏まえれば、そんなことはいかなる根拠も提供しない。学校などというbondageで硬直し切った相互監視の牢獄で、自らを披露しろなどという拷問を喜び勇んで引き受ける優等生たちを見て、その麻痺し切った感受性を前に「あいつら、こえーな」と思わない方がむしろどうかしている。

 筆者は亡き師を偲び、「死や宗教について語り合っていたあの読書会の場で、文学を媒介にして、ご自分の思いをせめてほんの少しでも吐露することができなかっただろうか」と悔悟の念をにじませる。もちろん無理な注文である、師弟というbondageがあればこそ。

 キーボードを打ちながら、ふと連想した小説がある。夏目漱石『こころ』。「先生」が遺書を他の誰でもなく「私」に託すことができたのは、その呼び名とはおよそかけ離れた、絆というほどの何もない、幸福な読書会的な淡い関係性ゆえのことではなかったのだろうか、と。

 それゆえにこそ、あるいは瞬間通うこころがある。

 

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PLUTO

 

 私がロバート・オッペンハイマーに関心を持ってから20年はたつ。オッペンハイマーの名は科学者の社会的責任が問われる時にはほとんど必ず引き合いに出される。必ずネガティヴな意味で、つまり悪しき科学者のシンボルとして登場する。……

 この、大天才でも大サタンでもないただ一人の孤独な男を、現代のプロメテウス、ファウストメフィストフランケンシュタイン博士、はたまた狡猾な傭兵隊長ハッカー・ネドリーのアイドルに仕立て上げ、貶める必要はどこから生じるのか。そうすることで、誰が満足を覚え、利益を得るのか?

 私が見定めた答えは簡単である。私たちは、オッペンハイマーに、私たちが犯した、そして犯しつづけている犯罪をそっくり押しつけることで、アリバイを、無罪証明を手に入れようとするのである。……オッペンハイマーは腕のたしかな産婆の役を果たした人物に過ぎない。原爆を生んだ母体は私たちである。人間である。

 

 マックス・ボルン、ヴェルナー・ハイゼンベルク、ヴォルフガンク・パウリ――

 綺羅星のごとき物理学のレジェンドが集える1920年代のゲッティンゲン、才気煥発な「若い連中は、ほとんど毎日のように新しい発見をしていた」。その末席にロバート・オッペンハイマーもまた座していた。彼は後に振り返って言う。

ケンブリッジで、ましてやハーヴァードでは味わうことのなかった意味合いで、私は、興味や嗜好の似かよった、そして物理についてはたくさんのことに同じ関心を持った人たちでできた小さな集団に属していた」。

 鶏が先か、卵が先か、否、巣箱が先だ。孵化できる環境があってはじめて卵は卵であることができる、そうして鶏は生を享けることができる。才能なる抽象概念は、この黎明期のきらめきを何ら説明しない。天才は一日にしてならず、一人にしてならず。ヴェルサイユ条約の戦後処理により停滞を余儀なくされているはずのあのドイツにおいてすら、「国際的に開かれた科学者の共同体――クエーカー教徒の集会に似て、相互の合意以上の権威は存在しない、本質的なアナーキスティックな科学者共同体」が、彼らを不朽の発見へと導いた。

 果たして時は流れ、とあるミッションを請け負ったオッペンハイマーニューメキシコの山中に求めたのも、自由闊達な議論を可能にする「科学者共同体」だった。筆者の言うことには、この地では、「彼自身のものと同定できる独自な技術的貢献は何も行わなかった」。代わって彼が所長として担った労務といえば、適切な人材をかき集めて配置し、ゲッティンゲンの記憶そのままの「科学者共同体」を再現することだった。

 ある研究者の述懐。「オッピー[オッペンハイマーの愛称]は、化学者、物理学者、技術者だけでなく、画家、哲学者といった場違いの連中も集めてきた。そうした人間たちなしでは文化的なコミュニティーは完全でないと彼は考えたのだ。……夕方、あてもなく外に出て、目にとまった最初のドアをノックすれば、中では、音楽を奏でたり、興味しんしんの会話を交わしている面白い人たちが間違いなくいるのだと思うと、私はうれしくなってしまうのだった。これほど知性の高い洗練された人が多彩に揃っている小さな町を見るのは生まれて初めてのことだった」。

 ところがその楽園は、「公式には所番地もなく、地図の上にも存在しない秘密研究所」でもあった。今日となってはもったいぶるまでもない、約束のその場所、ロス・アラモスに託された最高の軍事機密とはすなわち原爆だった。

 

 読者はここで少なからぬ困惑に駆られずにはいない。

 戦争、とりわけ第二次世界大戦と科学の関わりを論じるに、あるいはオッペンハイマー以上にしばしば持ち出される名前がある。アドルフ・アイヒマンという。

 かの絶滅収容所を取りしきり、毒ガスによるユダヤ人大量虐殺を主導したこの男に、しかしかのハンナ・アレントが見たのは、驚くべきまでの「悪の凡庸さ」だった。官僚機構の一員として上意下達で与えられたミッションを忠実に遂行したに過ぎないこの男は、罪悪感を問われても、その意をついぞ解することができなかった。

『モダン・タイムス』そのままに、一切をオートメーションのごとくに振る舞うことをもってはじめて成立する「悪の凡庸さ」とはおよそ対照的な環境が、ロス・アラモスの「科学者共同体」には確かに樹立されていた。しかし嘆かわしくも、より大いなる殺傷能力を獲得してしまったのは、後者の方だった。次から次へと立ち現れる技術的、理論的な課題の数々を日々自ら発見しては克服していく。もちろん軍部からの突き上げと無縁であれたはずはない、しかしオッペンハイマーは楯として「科学者共同体」を守り抜き、果たして原爆は完成の時を見た。ナチスや日本にはなくて、ただしアメリカにあったものは、単に投入可能な研究リソースだけではない、「科学者共同体」によってのみなし得る開かれた討議の場だった、権威主義者にはまさか築けるはずもない。

 

 いっそ「悪の凡庸さ」が人間における残虐性の唯一無二の説明関数を担ってくれれば、これほど簡単な話もない。孤独に震えるマッド・サイエンティストによって引き起こされるクライシスというのも、いかにも分かりやすい。

 しかし、「科学者共同体」はそれらの像とは似ても似つかない。にもかかわらず、無垢とすら映るそんな彼らが、どんなファシストによってもなし得ない殺傷能力をこの世に誕生させてしまう。成果主義や強迫的な負のインセンティヴでは決してもたらされようもない惨禍を、彼らの自発性や好奇心は呼び起こすことができてしまう。

 今日に至るまでの歴史の教訓として、全体主義が実のところ恐るに足りぬと軽視するには相応の理由がある。端的に、彼らは無能だから。恐怖支配に基づく選択と集中が偉大なる進歩をもたらし得るとするならば、世界の科学は北朝鮮やらアフリカのどこぞの独裁国家によって牽引されていることだろうし、さらに遡れば、封建制度や寡頭支配は空気のごとき恒常状態としてそんな呼称を与えられることすらなかっただろう。しかし彼らはもちろんGAFAMシリコンバレーを持たなかったし、これより先も持つことはない。彼らには縮小再生産の他に何ができることもない。

 もっともそこにさらなる歴史のどんでん返しがある。現在進行形で目撃する、自由主義陣営が展開したITプラットフォームのとりあえずの到達点は――『1984』や『動物農場』も裸足で逃げ出すディストピアだった。

 だからこそ、めまいに誘われる。

 

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地獄の季節

 

 旅は出会いであるといわれる。だが、出会ったものとはかならず別れなくてはならない。この本では、どちらかというと、旅を通じたさまざまな別れをあつかったものが多くなった。

 別れたものは、いきなりいなくなるわけではない。死者が自分の中で生きつづけ、気がつけば対話の相手となっていることがあるように、旅で別れた人や風景や物語もまた、自分の内面に居場所を定め、折にふれてよみがえってくる。

 出会ったときには気にも留めなかった出来事、日記にも記されず、写真にも撮られることもなかった断片的な映像や会話が、時の経過の中であぶりだしのように浮かんでくる。旅の経験は、そうやって熟成と変容をつづけ、いつしか空気や水や光や温度のように自分に寄りそう存在となり、不在を意識すらしなくなっていく。それが別れの成就ということかもしれない。

 

 カイロにて筆者が出会った日本人バックパッカー、その当時で御年なんと71歳。65歳にしてようやく渡った海外の魅力にたちまち目覚めた彼は以来、年の10カ月ほどを異国で過ごすようになる。

 貧乏宿に高齢者がひとり、ならず者たちにしてみればまさしく鴨がネギを背負って現れたようなもの。しかし睡眠薬を盛られようとも、首絞めで意識を奪われようとも、当人は達観したようにあっけらかんと笑い飛ばす。帰国してはじめて実妹が亡くなっていたことを知らされる、ショックを受けたかと思いきや、本人曰く「たまたま、あとに残ったのが自分だというだけやから、なんてことないですわ」。身体がガンに蝕まれ、ボケが回った状態ですらも、「かえって写真を見ていると楽しいんです。行ったことないところを旅しているような気がして新鮮なんです」と言ってのける。そこには武勇伝をひけらかすといった鬱陶しい自意識はまるで見られない。

 

 対照的に、と言わねばならないのかもしれない、筆者自身の旅に超然と悟り切ったかのような爽快感が流れることはない。

 

 やはりエジプトでレズリーというイギリス人に出会う。同宿の縁からなんとなく一週間ほどを共に過ごすこととなった彼女が言うことには、ジューススタンドで飲んだイチゴ味が「カイロでいちばんいい思い出」。そう聞かされた筆者ははじめそのわびしさに胸が詰まる。

 彼女が国へと帰った数日後に、筆者もアテネへと飛ぶ。その機中で思い出すのはレズリーのこと、「寂しそうにしていたとき、声をかけてあげればよかった。食事に誘ってあげればよかった。3ポンドくらいの料理ならごちそうしてあげればよかった。その帰りに、ホテルの前の通りのスタンドでいっしょにイチゴの生ジュースを飲みたかった」。

 

 ある年、筆者はウガンダの森を訪ねる。フィールドワーカーに話を聞くつもりでいたのだが、すれ違いで彼女は首都へと出かけていた。それはまだ携帯電話もない時代のこと、23日もすれば戻って来るだろう、とのスタッフのことばを信じてキャンプで待つことにする。しかし、彼女はなかなか戻らない。

「ほんとうになにもすることがなくなった。/……退屈だった。音楽にたとえるならば、ドの音が1時間つづいて、次にレの音がまた1時間、そのあとミの音が1時間つづく音楽を聞いているような気分だった。あまりに間延びしていて、それが音楽的な音のつらなりだとは認識できない」。

 しかし、そんな日々にさらされるうち、筆者はふと「妙な気分」に襲われる。「はじめは退屈としか感じられなかったひどく緩慢な時間の流れを、それなりに味わい楽しめるようになってきた。/……単調にしか聞こえなかった音が、無数の微細な音からなる織物のように聞こえてくる。ある音は一瞬で途切れ、ある音は生滅を繰り返し、ある音は滔々とうねり、ある音はほかの音とよりあわさったり交錯したりしながら、たえず新たな模様を創造してはそれを崩していく。はじまりも終わりもないそんな音楽が森のあらゆる細部で尽きることなく奏でられつづけている」。

 ようやく来た待ち人に筆者は言った。

「そりゃもう退屈しました。こんなに充実した退屈は初めてです」。

 

 その「退屈」の発見には、筆者の原体験が深く関わっているのかもしれない。

 父親のDVに耐えかねて一家が離散したのは中学生のこと、互いに身を寄せ合って慮って暮らしたかと思いきや、筆者が母をめぐってまず思い出す顔といえば、「挑みかかるような攻撃的なまなざしだ。怒りと恨みと悲しみのないまぜになった暗い炎をたたえたまなざし」。彼女は息子に夫を重ねた。

「そこに行けば自由になれる」。

 その幻想にさまよう筆者は、そうして専ら異国を訪ね「別れ」を綴る。筆者にとっての旅とは、何かと出会うためではなく、何かと決別するためにある。その果てにあるいは瞬間、「新たな今」を見出す。

 

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