みんなのうた

 

201510月、僕はフィリピン人女性のミカと結婚した。

 ミカと出会ったのは2011年。当時大学院生だった僕は、フィリピンパブを研究しようと、調査の一環で訪れたフィリピンパブで、ホステスとして働いていたミカと出会い、交際を始めた。……

 結婚した後も、僕は定職には就かず、日雇いの仕事や、友人の家族が経営する町工場、母校の大学でのアルバイト生活だった。……

 一方、ミカはフィリピンパブの仕事で月40万円稼ぐ時もあり、僕たち夫婦の稼ぎ頭になってくれていた。……

 フィリピンでは親兄弟や親戚が一緒に住むことは珍しくない。仕事がない大人の男性が昼間からビールを飲み、気持ちよさそうに昼寝をして、子供たちと遊んだり、近所の人たちと外でギャンブルをして盛り上がったりする姿を良く目にする。

 あの頃の僕も、そんなフィリピンでよく見た大人たちと同じだった。

 一般的な日本の家庭であれば「早く就職しろ」「働かないなら出て行け」などと言われそうだが、家で自分だけゴロゴロしているときも、ミカやミカの姉からそんなことを言われることもなく、僕自身も「まぁ何とかなるだろう」と危機感なくのんびりと過ごしていた。

 子どもができるまでは。

 

「すごい。さすが日本。フィリピンだとありえない」。

 かくして妊娠届を提出しに市役所に出向いたミカは、思わず感嘆の声をあげずにはいられない。母子手帳タガログ語バージョンならば、本国では到底望めない補助制度も提供されている。

 もっともその恩恵に彼女は十分にあずかることができない。

 最大の障壁は言語だった。彼女が体得していたのは、パブの接客現場でのいわばOJTによるブロークン・ジャパニーズ。単に問診票の漢字が理解できないだけではない。筆者が読み上げるタイチョウやスイミン程度のヴォキャブラリーすらも、これまでに触れてきていないのだから、容易に呑み込むことができない。どれほどハードが整備されていようとも、「それを知らなければ利用することは出来ない。そうした情報の多くは日本語で書かれている」。産後にホスピタリティあふれる保健師が自宅に訪問してくれても、手渡された冊子をいざトラブルの際に「読んで連絡することは難し」い。そして実際、度々ミカに付き添う義母によれば、「広報誌に書いてある子育てイベントとか、氏の無料で使える施設で、外国人を見たことない」。

 もちろん、行政にしてもこの状況にただ手をこまねいて傍観しているわけではない。「無料日本語教室、多言語での就職相談、多言語での案内表示、市役所での通訳」など「お互いにより住みやすくなるよう努力している」。とはいえ、しばしば外国人から相談を持ち込まれる筆者の目には、「多くの日本人、行政側も、外国人が日本でどういう生活をして、どういうことで困っているかを知らない」ように映る。

 それでも彼女は言う。「日本で子育てできてありがたいよ。フィリピンと違って安全だし、食べ物も安心。子供の病院もお金かからないでしょ。公園も沢山ある。しかも無料。フィリピンだったら子供を安心して遊ばせるところ少ないよ。どこでもお金かかる」。

 

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 前著『フィリピンパブ嬢の社会学』から数年、誰しもが「新たな環境に身を置けば、新たな人生が始まる」。本書が浮上させるのは母国で「生活するのはもう無理」と断言し、「子供は日本で育てたい。だからずっと日本で住むよ」と決意したミカの変わりゆく姿。

 あまりに象徴的なコントラストが描かれる。あるとき血液検査で妊娠糖尿病の診断が下る。「フィリピン料理は脂っこいものが多い。食事中の飲み物も、コーラなど甘いものが主で、生野菜やお茶などはあまり出てこない」。原因は明白で、そうした食生活の蓄積に由来していた。

 日本国内で医師の指導等を受けて食習慣を改善していった彼女とは対照的に、ルーツでは「僕がミカと結婚してから、今までに4人、ミカのおじとおばが亡くなった。/大方は脳梗塞心筋梗塞、糖尿病が原因だ。脂っこい食べ物と甘い飲み物を毎日とるから、生活習慣病を抱えている人が驚くほど多い。体の調子が悪い人も珍しくなく、50代を超えた頃から亡くなる人も出てくる」。

 WHOのデータによれば、フィリピンでの平均余命は、男性で67.4歳、女性で73.6歳。対して日本におけるそれは、それぞれ81.4歳、87.5歳となる。

 このギャップをめぐって、もちろん食生活や医療のみを単一の説明関数とすることはできない。しかしミカは、日本式の生活様式を取り入れることによって、おそらくはより長い命の時間を手に入れることに成功する。

「新たな環境に身を置けば、新たな人生が始まる」、そんな彼女に果たしてどこのバカが嫌なら帰れなどと罵声を浴びせることができるだろうか。

 

 他方で、両国の血を引くハーフであっても、いやだからこそ、「泥水を飲んで生きている」ような針のむしろを日本で味わう者もある。

 その中でも、ひときわ強烈な履歴を持った人物が登場する。

 筆者とは知人を介して知り合ったハーフの彼は、日本語で話しかけても「あ、ごめん、わからない」としか答えることができなかった。ところが驚くことにこの彼はれっきとした日本国籍保有者で、生まれ育ったフィリピンからはオーバーステイで追放されているという。そんなある日、筆者は新聞で彼が逮捕されたことを知る。容疑は覚せい剤取締法違反、大麻取締法違反、関税法違反。

 書類上の母国というだけでことばの通じない環境に放り込まれる、親類や同郷のセーフティ・ネットも作動しない、その孤独の中で薬物に手を染める、あまりに類型的な像がそこにあった。しかもここには、分配をめぐるある種の自由主義的競争原理が強力に作用する。

「外国人が多く増えた今、行政は無料日本語学習や外国人向けの生活相談、就職支援など様々な支援活動を行っているが、行政のそうした努力よりも、彼らを労働力として必要としている企業や、薬物の売人の方が、日本語の出来ない外国人に合わせるスピードが速い」。

 ユーザーは必ずしもシャブを欲しているわけではない、ただし決まって人間関係に飢えている、そのウォンツを巧みにすくい取る。クスリごときに世の中が妄想するほどの効能など含まれてはいない、ただ単に売人の他に誰も話しかけてすらくれないから、そのコミュニケーションを彼らは買う。孤独な彼らに行政の真摯な声は届かない、しかし中毒的に新規顧客を探してやまない商人の嗅覚はリーチする、行政が無能なのではない、市場原理が優秀すぎるのだ、見事としか言いようがない社会資源をめぐるイノヴェーションがここに観察される。

 

 そして今や、「アドボやシニガン、ニラガなどのフィリピン料理が出る時もあれば、焼き魚や鍋、お好み焼き、焼きそば、味噌汁など日本の家庭料理もある」、そんな四人家族の食卓からクライマックスは展開していく。

 あるとき彼女は「外国人から見た日本での生活」をテーマにした発表会で登壇する。おそらくは本書で描かれるような子育てのあれこれを15分にもわたってスピーチしたという。

 そうして大役を果たした彼女を出迎えて、

「子供たちが『ママすごーい!』とミカに言う。

『パパ! ママ頑張ったから昼はしゃぶしゃぶにしてよ!』と娘が言う。頑張ったミカを労うために、その日はしゃぶしゃぶを食べに行った」。

 晴れのごちそうにひとつの鍋を囲む、日本に住まうそんな平凡な家族の平凡な光景がそこにあった。

「新たな環境に身を置けば、新たな人生が始まる」。これからも続いていくだろうつつがなき日々の、そのひとまずの大団円として、これほどまでにふさわしいメニューが他にあるだろうか。

 

 

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アメリカの反知性主義

 

 チャーリー・ブラウンは立場を決めるとき、ひどく悩む。これぞこのキャラクターのいつものユーモアだ。そして、チャーリー・ブラウンにたくさんある、自分の大嫌いなところのひとつでもある。……

「優柔不断」こそシュルツのイデオロギーなのだ。実際シュルツは、政治に関して一種のカメレオンだった。冷戦期アメリカの政治文化における幅広い中間層のあいだで、右へ左へ変身を遂げたのだ。シュルツは読者にロールシャッハテストのように機能する場面を描くのが巧みだった。物議をかもす論題を提示しつつ、大いに多義的なところがあるために、読者はひどく嬉しかったりむかついたりするものをそこに見てしまうのである。1950年から2000年まで、さまざまな問題について人々が抱く複雑で多岐にわたる感情を、シュルツは漫画で映し出したり増幅したりした。これは、市民宗教、人種統合、女性の権利、あるいは資本主義の没落や自然環境の悪化やベトナム戦争、これらに対する恐怖まで含まれる。……

 本書は……『ピーナッツ』が単なる現実逃避の作品ではないことを明らかにする。むしろ『ピーナッツ』は、社会的・政治的意識を持つ戦後のアメリカ人たちが生きた経験に繰り返し触れている。政治的見解を異にする読者たちが、『ピーナッツ』に見いだした考えをめぐって論争するためシュルツに手紙を書く――こんなことが何度も繰り返されてきた。しかし、それよりもはるかに示唆に富むのは、正反対の意見を持つ人々がまったく逆の理由から同じコミックを愛するという現象が何度も起こっていることである。

 

 人類史上、前例を見ようもない国民作家がここに生まれる。

 チャールズ・モンロー・シュルツをめぐってそう断言しても差し支えないのには、相応の論拠がある。なにせメディア環境が違う。シンジケートを介して全米の複数の新聞に掲載されることで同じ日に数百万、数千万人の目に触れる、こんなコミックストリップは未だかつてなかった。全国放送を通じて数千万人に視聴される、こんなアニメが生まれるにはテレビ技術の発達を待たなければならなかった。ましてやその同時接続者たちから山のような手紙が届く、こんなことは現代に国民作家と称されるいかなる歴史的文豪も経験していたはずがない。そもそも人口のキャパシティからして桁違いである。

 そしてマスによってはじめて可能となったこの存在は、「時代時代にアメリカや世界が直面してきた深刻きわまりない事件に対して、あまりに無関心であり過ぎる」との批判をあざ笑うように、どこまでも果敢だった。

 公民権運動燃え盛る1968年のこと、シュルツは新たなるキャラクターとしてフランクリンを投入する。少なからぬリゾート地のビーチが肌の色によって仕切られていたまさにその最中に、この黒人少年は「首尾よく泳いで海から出て、周囲の大人たちから一切抗議を受けるでもなく、チャーリー・ブラウンと一緒に堂々とビーチに立」つことで颯爽とその初登場を果たした。1974年のある回に至っては、アイスホッケーの練習に励む彼に向けてペパーミント パティがこんな問いを投げかける。「NHLには何人の黒人選手がいるの、フランクリン?」ちなみにこの当時、現役のプレイヤーといえば、ただひとりだけだったという。

 ただし実は、本書はそのマニフェストとしてシュルツ個人の評伝ではないことを繰り返し強調している。あくまでその力点は、彼の作品を受け止めたサイドへと注がれる。

 フランクリンの登場にいたく感銘を受けた読者のひとりは、黒人運動団体のマスコットにこのニュー・カマーを推薦せずにはいられなかった。別の読者にとっても、彼は一躍公民権のアイコンとなった。そのファンレターが夢想するところでは、マンガの世界と同様に「もしすべての人々が生活のなかに『新たなキャラクターを登場させる』ことができれば……『恐怖、不寛容、偏屈、憎悪への戦いはすぐに終わる』」。あるいはベトナムの地で触れた黒人兵士は、「仲間たちがこのマンガを読んだとき、どれくらいの騒ぎが起こったか、絶対にわかってもらえないでしょう」と作者にリポートせずにはいられなかった。

 どんな自然主義作家の名手が、これほどの数の共時的なリアクションをかつて引き出し得ただろうか。

 

 そうして彼は、反知性主義アメリカを体現し続けた。

 ベトナム戦争の真っ只中に彼が描いたのは、レッド・バロンに扮したスヌーピーの姿だった。あくまで表面的には、第一次世界大戦のドイツの英雄、マンフレート・フォン・リヒトホーフェンをなぞってこそいるが、それが東南アジアを仮託した婉曲な寓意であろうことは読者の誰しもが気づいていた。そこにシュルツは「兵士たちへの確乎とした支持」を投影した、ただし同時に、「戦争への支持とは別物だと考えていた」。

 しかし、ここでも受け手たちは時に異なる見解をこの連作の中に見出した。「保守的な人々にとって、スヌーピーの戦争が鏡のごとく写し出していたのは、ベトナムにいるアメリカ兵をサポートし、国への忠誠を保持しようとした自分たちの戦いであった」。彼らは結局、前線で命を賭して戦う兵士たちを楯にして、たとえ消極的な仕方であろうとも、戦争と母国を支持し続けた。仮にも民主主義を掲げるその国にあって、「戦争を呪いながらも戦いをやめることは拒絶した撃墜王、あるいは、徴兵への恐怖は遠慮なく口にしつつも運命を受け入れていたチャーリー・ブラウン、彼らに似て多くのアメリカ国民は、敗北という選択肢がその世界観になかったがゆえ、よくわからない戦争に対峙していた」。そうしてUSAをやみくもに叫び続けて、やめるという当然の判断すらできない国家を、むしろ能動的にサポートして、挙げ句勝手に打ちひしがれることとなる。一見すれば「優柔不断」、しかしそれは流される、という固い決意の別言に過ぎない。

 ちょうどそのころ、マーティン・ルーサー・キングは演説していた。「最大の悲劇は、悪人の圧制や残酷さではなく、善人の沈黙である」。いや違う、彼ら自称「善人」は、「優柔不断」の「沈黙」をもって、事実としてむしろ積極的に「悪人」へとコミットしているのだから。知性を欠いたすべて彼らは、自らを「悪人」と認識する能力すら持たない。そうして「悪人」であることに気づかぬまま、被害者面だけを一丁前に決め込んではばからない。

 このスタンスは、環境問題へのアプローチにより明快に示される。シュルツが言うことには、「大気汚染の原因は、環境に対するみずからの責任を縮減したアメリカ人なのだ。……つまり求められるのは、規制ではなく個人による解決なのである」。彼らは政府や企業の無策すらも個人化して吸収した、もしくは自己責任として他人へと転嫁した。彼らにとって自然破壊とは、各人が「落ち葉やゴミを燃やすことや、未整備の車やバイクなどに乗ること」であり、抑止策とはひとえに各人の自助努力だった。あるアンケートが指し示すところでは「大企業を環境汚染と結びつける回答はわずか3%」、このキャンペーンの片棒を『ピーナッツ』は紛れもなく担いでいた。

沈黙の春』はいずこかへと消えた。

 

 それは時代の寵児たるシュルツの宿命だったのかもしれない。

 いみじくもテレビなる遠隔性tele-を語源に持つその装置は、同時視聴の経験を通じて人々を束ねるどころか引き離すことに成功した。シュルツも身を置く福音派に限らない各宗派が、毎週日曜日の教会通いやチャリティをもって人々の輪を提供していたのも遠い昔、ジェリー・ファラウェルをはじめとしたテレヴァンジェリストたちは、まさにその箱を通じて誇大妄想的にネオリベラリズムの教義を孤独な各家庭へ向けて送信し、そうしてmake America great again共和党の岩盤集票マシンとしての地位を構築した。

 遡って1965年の冬にその兆候は既に現れていたのかもしれない。彼がタクトを揮った『チャーリー・ブラウンのクリスマス』は、高視聴率をもって迎えられた。その中でキャラクターたちは聖書を片手に、プレゼント商戦の物質主義化したこのホリデーの本義を説いた。この日はサンタクロースを迎えるための日ではない、あくまでキリストの誕生を敬虔に祝う日なのだ、と。例によって手紙の送り主たちは賛辞を尽くす、政教分離等への配慮からうかつに宗教を広めることもできない時代に、「わたしたちの教会の聖職者の説教では無理なほどの影響を子どもたちにあたえてくれました」と。コミュニティが消えて、テレビが残る、この未来を一通の手紙が予知していた。とどめの仕上げは、モータリゼーションがもたらしたスプロール化である。結果どうなったか。人々が互いを遠ざけるようになった末に、関わり方すら分からなくなった。かつてなら何かしらの仕方で顔見知りであれたかもしれない路上の歩行者が、今や単なるストレンジャーとして通報の対象となる。

『ピーナッツ』は、まさにその時代の象徴だった。テレビを観ている暇があるのならば、お手紙なんて書いている暇があるのならば、地域の誰かとコーヒーでも酒でも飲みながらまさにその話でもしたらいい、そんな雑談すら交わせない孤独な時代だからこそ、スヌーピーは逆説的に不世出のアイコンとなることができた。

 読者のお便りが伝えていたのは、当時においてすら、是々非々の議論などではない。彼らは像を共有するためのプラットフォームを持たないのだから、単に各々がスヌーピーという空虚な中心に向けて、見たいものを見ることしかできなかった。

 タウンシップを持たない彼らは、社会の問題すらも個人の次元で消化しようとして、もちろんそんなことは不可能なので、問題は問題のまま、解決されずに放置され続ける。「優柔不断wishy-washy」をあえて選んだわけではない、他なる道を剥ぎ取られてしまった分断の時代の帰結に過ぎない。他にすることがない、できることがない、だから、「優」しさもなければ「柔」かさもない彼らは、今日もテレビにしがみつく。

 その空気を『ピーナッツ』は見事に捉えた。だからこそ、アメリカ人マジョリティにとってのライナスの毛布となれた。これを可能にしたのは、何よりもテレビだった。メディアがメッセージを規定する、マーシャル・マクルーハンのテーゼにシュルツはどこまでも忠実だった。

 そうして反知性主義者たちは自壊した。

 

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忘れな草をもう一度

 

 近年、メディアで「限界ニュータウン」という表現を見かける機会が多くなってきた。……

 一方で、その郊外型ニュータウンのさらに外側、農村部の間に忘れられたように残されている小規模な住宅分譲地については、広く語られる機会は少ない。ましてや市街地から遠く離れた山間部に点在する別荘地などにいたっては、そこに土地を所有している当事者でもなければ、関心を持つどころか、そもそもその存在すら目にする機会もないのが普通なのではないかと思う。僕はそのような、家屋もまばらでほとんどが空き地のまま放置されているような超郊外の分譲地を、主に「限界分譲地」と呼称しているが、これもまた都市問題の用語として定着しているとは言いがたい。……

「限界ニュータウン」「限界分譲地」をテーマに語ると、どうしてもそこに住む人の苦労や悲哀などがクローズアップされがちだが、一方でその限界ニュータウンの家々の間に残る空き地は、そこに住むわけでもない都市部在住者の所有地であり、そんな不在地主もまた、いつ売れるのかもわからない「負動産」を抱え込み、時には悪知恵を働かせた業者の口車に乗せられ、不毛な維持費を捻出して所有し続けている。その土地を買いたい人よりも、売りたい人の方が圧倒的に多いような限界分譲地は、問題の根源はむしろそうした不在地主側の事情にあることが多いと考えている。それは不在地主に非や落ち度があるという話ではなく、むしろ正確な情報から遮断されているところにあると言った方が正しいかもしれない。

 

 これら「限界分譲地」が、ペンペン草も生えないような荒れ地ならばいっそよかった。ところが筆者が自ら住まい訪ねて歩く千葉県北東部の「限界分譲地」には、幸か不幸か、ペンペン草くらいは生えてくるのである。それどこか、何の手入れもしなければ雑木すらも伸びてくる。場合によっては、隣地や道路にまでその根を張り、そのことで住民や自治体からのクレームも所有者に入ることとなる。さりとて、そんな塩漬け物件のためにわざわざ自ら足を運んで草むしりに汗を流すような殊勝な人物というのもそう多くはない。

 目ざとい商人がこの窮状をビジネス・チャンスに変えてみせないはずがない。この草刈りを1万円前後の価格で承る業者が台頭し、「千葉県郊外においては、いまやひとつの地場産業として成立していると言っていい」。

 そしてそんな彼らは、しばしば管理する土地売買の仲介も引き受けていたりもする。しかし冷静に考えてみれば、少しばかり奇妙な話なのである。こんな二束三文の土地を斡旋したところで、実入りなどたかが知れている。にもかかわらず、仮に契約が成立した場合に、新たな所有者が引き続き自社に草刈りを依頼してくれるとも限らないのである。それではみすみす自らの食い扶持を売りに出しているようなものではないか。

 もちろんそんなお人好しでは、生き馬の目を抜く不動産投機の世界を生き抜くことなどできやしない。だから彼らは、バブルの記憶にとらわれて損切りできないクライアントの言い値のままに、実勢価格をはるか乖離したプライスタグをかけ続ける。彼らにしてみれば、「いくら草刈りをしても絶対に売れないような条件の悪い土地の所有者こそ格好の上客とも言える」。

 

 差別化戦略も何もないこの「レッド・オーシャン」にひどく感銘を受ける。まさにこの商魂を煮凝りにしたような新規ビジネスの胎動こそが、本書全体を要約するような、「限界分譲地」の「限界分譲地」たる所以ではなかろうか、と。かつて千葉の僻地にすらも一攫千金を夢見ずにいられなかったのと同じ仕方で、バブルの焼け跡にすらも、ベンチャーは芽を出さずにはいられない。後は野となれ山となれと売り抜けたきり知らん顔の昭和のデヴェロッパーの尻拭いをするために、令和の世にも新たな業種が生まれてくる。上げ潮の時代には上げ潮の、下げ潮の時代には下げ潮の、それぞれの社会のニーズとウォンツに根ざしたベンチャーがそこに生まれてくる。実体といえば単に過去のツケを支払っているだけ、未来が食い潰されているだけで何ら生産性はない、しかしこの新陳代謝にはどこか感動すら催さずにいられない。

 人口減少が約束された社会にあって、交通網も教育環境も縮小傾向のこれら限界自治体に、大口の雇用を生むような金の卵が転がり込む公算は今後も決してないといっていい。私がいかに白々しく褒めそやすふりをしてみたところで、入ってくる金額など契約1件につき年一桁万円の、しょぼくれた「限界分譲地」にお似合いの、しょぼくれたビジネス・モデルである。エスキモーに氷を売るイノヴェーション性はかけらもない。しかし、何はともあれ、小さなパイを奪い合うその社会で適者生存を図るアントレプレナーは時代時代に誕生していく。

「今も昔もこの千葉県郊外は、かつては投機の実験場となり、その後は廉価な住宅の供給場となり、そして今はその大きく下落した地下を逆手に取った投資の入門場となるなど、いつの時代も、首都圏の不動産市場に翻弄され続けている土地といえるのかもしれない」。

 紛れもなく、この光景は衰退国の行く末を暗示している。

 

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不適切にもほどがある!

 

 キリスト教は性にたいして保守的で厳格だといわれる。その一方ではまた、宗派を問わず教会内部に性犯罪や性暴力がはびこってきたことも知られている。……

 とはいえ、中世からルネサンスに目を向けてみると、キリスト教は性をめぐって、わたしたちが思っているよりもはるかに多様で豊かな想像力を育んできたのではないか、そうした見通しのもとで小著は書き進められる。

 それが顕著にみられるのは、正統とされた教義や神学のなかというよりも、異端として排除され、民衆のなかで生きつづけてきた信仰とそれに関連する美術においてである。……

 本書は二部からなっていて、それぞれに三つの章が用意されている。第Ⅰ部「クィアなキリスト」では、キリストと三人の重要人物、順に使徒ヨハネと裏切り者とされたユダと母マリアとの「愛」の関係が、いかに語られ描かれてきたかに焦点が当てられる。

 つづく第Ⅱ部「交差するジェンダー」では、基本的に男性中心主義的なキリスト教において、それを攪乱させ揺るがせるような要素も欠いてはいなかったことが、言説と図像の両面からたどられる。順に、キリストのジェンダー、その身体に刻まれた傷、三位一体のひとつ「聖霊」をめぐって繰り広げられてきた、きわめて豊かな民衆的想像力の世界である。

 

 論より証拠、まずはこちらの絵をごらんいただきたい。

 例えばパブリック・スペースの広告物にこのグラフィックを掲げることが現代において認められるとは、なかなかに考えづらいものがある。しかし、これは紛れもなく、G.クールベ『世界の起源』にはるかさきがけて、時祷書という中世の修道院のオフィシャル文献に描き込まれた挿絵の一枚なのである。

 この一枚だけならば、猫も杓子もそういう風にしか見ることのできない、不届きなことこの上ないポルノ中毒者の典型症例でしかないのかもしれない。しかし他にも、同様のモチーフがつるべ打ちのように乱れ飛べば、それも筆致が明らかに違う、もう偶然とは呼べまい。美術の何がすばらしいといって、見れば分かる、というこの簡明さにある。

 もちろん、印象派以前の西洋絵画の世界において、アトリビュートやら聖書やらにかこつけさえすれば、ヌードを堂々と描くことができたのと同じ申し開きは、これらにも用意されている。そのテーマとはまさに、教義の核たるゲッセマネの受苦劇である。罪深き人の子に成り代わって神の子がすべてを背負い命をも差し出した、というあの出来事に際して負った傷を図像化したのが、一連の割れ目なのだという。

 これとは少し別のアプローチから同じモチーフを扱ってみせたのが、カラヴァッジオ《聖トマスの不信》である。傷によって倒れた後、復活を遂げたという師のことばを信じきれない不肖の弟子が、恐る恐る指を挿入している様子をとらえたこの絵画、もし仮に「イエスの傷口を女性器になぞらえる図像が流布していたとするならば、こうしたトマスの仕草は、性的な連想を誘わずにはいられなかっただろう」。

 

 ところが他方で、「ヨハネ福音書」による限り、ことマグダラのマリアに対しては、真っ先に目の前に再臨こそしつつも、同時に「すがりつくのはよしなさいnoli me tangere」(ヨハネ20:17)と突き放してもいる。これに従えば、傷に入れる‐入れられるというこの関係を、同性たちには促しておきながら、十二使徒唯一の異性にのみ認めなかった、ということになる。

 ひとりの相手を奪い合う同族嫌悪のジェラシーが、ほとんどミソジニーの色彩すら帯びて、たまらなく行間から滲み出る。一応はこの書き手ということになっている「イエスの愛しておられた弟子」は、ラブレターを転じて福音書と世界に認めさせることに性交あっとうっかり成功した。なにせ最後の晩餐に際して、「イエスの胸もとに寄りかかっ」(ヨハネ21:20)っていたことを堂々謳ってはばからない。ここにボーイズラブを読み解いてしまうのは現代人固有の性ではない。あのレオナルド・ダ・ヴィンチすらも、あの歴史的絵画の中でイエスの隣に座する彼に「他の11人の使徒とは違って、女性にも見紛うような甘い表情と出で立ちを」与えずにはいられなかった。ピエロ・ディ・コジモも、彼に「あどけない少年のようにも少女のようにも見える」表情を吹き込んでみせた。

 アガペーやらエロスやらといった用語をめぐる神学的、ギリシア語的解釈論なんてどうでもいい、ソドムとゴモラなんて知らないし、ただこの駄々漏れの愛を成就させてあげたい、誰だってそう思う、中世の人間すらもそう考えた。

 そんな推し活の、いわば二次創作最高峰といえるのが、この木製彫刻である(Mayer Van den Bergh美術館所蔵)。

 現代において挿れる‐挿れられるものとしての指とリングがそうあるように、当時においては「互いに右手を取り合うカップルを描いた……この仕草が結婚(もしくは婚約)」を暗示していた。

 頬を赤らめてふたりきりで寄り添う。「当時こうした祈念像を見る者――修道僧であれ、聖職者であれ、一般信者であれ――は、おそらく男女を問わず、ヨハネのうちに自分の姿を重ねていた」。

 いったい誰がこの幸福な時間を彼らから奪い取ることができるだろう。今日のLGBTQといった文脈がそう見せているわけではない、当時の人々だって必ずや似通った萌え、あるいはさらに激烈なるパッションに胸を打たれずにはいられなかった。留保なんていらない、そう言い切っていい、それが芸術の力なのだから。

 これらはあくまで「いわゆる正統とされてきたキリスト教とその美術にとって、たんなる『残余』にして『はみ出しもの』に過ぎないのかもしれない。だが、むしろそうした残余のなかにこそ、宗教本来の寛容性や遊戯性や想像力が宿っていたとしたら、果たしてどうだろうか」。

 

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海原の人魚

 

 沖縄で、風俗業界で仕事をする女性たちの調査をはじめようと思ったのは2011年だった。

 沖縄の風俗業界には、未成年のときから働き出した女性たちがいると伝え聞いていた。年若くして夜の街に押し出された彼女たちがどのような家族のもとで育ち、どのように生活をしているかがわかれば、暴力の被害者になってしまう子どもたちの生活について話し、それを支援する方法について考えることができるのではないだろうか。……

 話を聞かせてもらったのは10代から20代のキャバクラや風俗店で働いている女性たちで、子どもももっているひとがほどんどだった。彼女たちは10代で子どもを産み、パートナーと別れたあと、ひとりで子どもを育てるために夜の業界で仕事をしていた。

 そうやって夜の街を歩くようになってから、私は昔の出来事を思い出すようになった。最初は友だちの手のひらを思い出した。その次は隣でさらさらと揺れていた髪の毛を思い出した。どれも中学生のころ、私の近くにあったものだ。

 話を聞いた女性たちはみんな、私の中学時代の友だちの面影を宿していた。……

 15歳のときに、捨てようと思った街に私は帰ってきた。今度こそここに立って、女の子たちのことを書き記したい。

 これは、私の街の女の子たちが、家族や恋人や知らない男たちから暴行を受けながら育ち、そこからひとりで逃げて、自分の居場所をつくりあげていくまでの物語だ。

 2012年の夏から2016年の夏までの、4年間の調査の記録である。

 

 100人いれば100通りの人生がある、なんて大嘘で、事実は1通りの人生しかない、つまり、AIによって計算可能、記述可能という意味で。

 

 筆者がかつてのクラスメイトの記憶を重ね合わせずにはいられないように、このテキストに登場する女性たちの姿は皆、驚くほどに似通っている。ある面では当然のことなのだ。男女の非対称な構造の中で日常化する暴力と搾取という鋳型を通じて切り出されたのが、この沖縄の彼女たちなのだから。

「ああそうか、これはデジャブだ、と思う。ずっとここで、繰り返されてきたことだったのだと思う」。

 このシステムをリフォームしない限り、これまでもこれからも、こうした「デジャブ」をまとう女性たちは、再生産され続ける。それは同時に、専ら加害し搾取する側の、ただひたすらに短視的で衝動的な男性たちを再生産する営みを兼ねてもいる。

 と、読み終わって数週間、途方に暮れる。

 このインタヴューから彼女たち6人の共通項を抽出して、レヴューすることくらい、訳もなくできる。それは少なからず、沖縄の「夜の街」に立つ女性像の、最大公約数的なフィギュアにもなるだろう。そもそもからして、こうした再生産構造の抑止のために、ひとつのモデルを描くべく立ち上げられたはずのフィールド・ワークでもある。

 そんなことは分かった上で、途方に暮れる。

 書かれていることからサマリーを抜き出す、その作業そのものがどうとも形容しがたく、テキストの性質そのものになじまないような気がしてならないのである。それはひとつには、類型化が搾取構造を少なからずリピートしてしまうから、という点もある。キャバ嬢、デリヘル嬢、JCJK――そうして対象を次から次へと記号消費する男たちの営みと、切り抜きというプロセスが少なからず相通じることはどうにも否めない。しかし、この違和感はその一点にのみ起因するものではない。

 引っかかり続けてはいる、何かしら言語化をしてすっきりはしたい、しかし要約化という行為に移すその仕方がなじまない、ような気がする、そうして一読者は途方に暮れる。

 

 そんなある日のこと、本書に対して抱き続けるこのぎこちなさに、関連書籍とも思わずに手に取った一冊のテキストが、唐突にその糸口を教えてくれた。

 湯澤規子『焼き芋とドーナツ』。

 この本のプロローグにおいて主に言及されているのは、高井としを『わたしの「女工哀史」』。「わたしの」というフレーズがはさまるのには訳がある。あの『女工哀史』を著した細井和喜蔵の内縁の妻だったという高井は、歴史的ルポルタージュに描かれた対象のひとりで、「細井の執筆や取材にも深く関与していたことから、実質的には『女工哀史』のもう一人の執筆者ともいえる。しかし、籍を入れていなかったという理由で『女工哀史』との関わりはなきものにされたばかりか、莫大な印税も彼女の手には届かなかった」。そんな彼女が、半世紀余を経て、自らテキストを上梓する。

「わたしの」と明記しているところを見れば、同書が言わんとしていることは推察できる。社会に広く知られた『女工哀史』には「自分自身」が描かれていない。だから、あらためて、「わたし」という主語で自らの物語を描き残したい。その意志が書名から伝わってくるのである。

 もちろん、大正昭和の高井と『裸足で逃げる』を紐づけて、今さらながらに前近代型封建制に共通の「デジャブ」を引き出そうなどという話ではない。

「わたし」である。

 レヴューを試みれば試みるほどに、その文章から「わたし」の痕跡が漂白されていく、「わたし」が抽象的な彼女たちへと還元されていく、たぶん、それが一連の躊躇の原因だった。

 上間陽子によるこのインタヴューとは、聞き手を持つことを通じて、語る「わたし」を彼女たち自身が発見していく試みに他ならない。結果ではない、その過程こそが、本書を本書たらしめる。

 彼女は、彼女たちは、「だれかに見つけてもらって、おうちに帰りたかったのだろうと思う」。「だれか」に見つかること、それはすなわち安全基地としての帰るべき「おうち」が見つかることであり、つまるところは、「わたし」自身が「わたし」を見つけることに他ならない、「わたし」を「わたし」たらしめるナラティヴを見つけることに他ならない。

 まるでウィリアム・フォークナーのように荒涼とした世界の中で、彼女たちはまさに判で押したかのようにかりそめの「おうち」を見つける。つまり、ヒモそのもののクズ男どもである。経済的な理由からすがるのではない、むしろ彼女たちは身を売って食わせている側なのだから。しかし彼女たちは、苛烈な暴力にさらされようとも、彼らから離れることができない。なぜならば、彼女たちを見つけてくれる「だれか」が他にはいないのだから。「だれか」を失えば何者でもなくなってしまう、その孤絶の方がたぶんDVよりも辛いのだから。

 

 その中で、「夜の街」から、男たちから、ようやく離れることをひとりの「わたし」は達成する。

 そのきっかけは、彼女が「DVを受けていることに気づき、声をかけてくれた看護師たち」だった。必死に駆け込んだ警察――文春よりも役に立たない公金チューチューでおなじみの――が「籍が入ってないから」とやらを口実に被害に見て見ぬふりを決め込む傍ら、そうしてようやく「だれかに見つけてもら」ったことで、彼女ははじめて「わたし」になる。その出会いを契機に、「わたし」は「自分が助けてもらったことを、今度はほかのひとたちに返してあげたい」と看護師を志し、その思いを実現させる。ロールモデルの先に生まれた「わたし」の次なる望みは訪問看護師だという。「病気や障がいをもちながら、ほんとうは家で暮らしたいと思っているひとたちが世の中にはいる。だから自分は、そういったひとたちのそばにいて、一緒に暮らしをつくっていく看護師になりたい」と「わたし」は思う。

 

 本書は、そんな「わたし」と、まだ「わたし」になり切れない「わたし」によって構成される。テキスト越しにそのストーリーに耳を傾ける、そのことがあるいは次なる「わたし」を誕生させる。

 

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