恐怖の谷

 

 気の毒な被害者はというと、妹のたっての希望でニューヨーク病院の集中治療室に移され、そこで十日間生き長らえた。意識はほぼないに等しく、妹とも警察とも話せずじまい。それというのも、両手を切断した何者かは何よりもまず、残忍なまでに正確な一撃を後頭部に食らわしていたからだ……

 侵入者はどうやら、こんな残忍なやり口にも慣れきった輩のようだった。でなければ極めて運のいい奴か。無理やり押し入った形跡は皆無。被害者の頭蓋骨をたたき割るのに使った大理石ののし棒も、もともと被害者宅の台所にあったものだ。靴跡も指紋も見つからずじまい。現金も貴金属も手付かずのまま。……

 現場に駆けつけた捜査員らは、思いも寄らぬ光景に大いに困惑する。政治史や文学史にその名を刻んだ偉人たちの、直筆の手紙やら生原稿やらが大量に、部屋いちめんめちゃくちゃに散らばっていたのだ。稀覯本の類も、床に埋め尽くさんばかりに散乱していた。表紙を上に開いて落ちているさまは鳥の死骸のようだったし、しかもその多くから、献辞が記されたページだけが引きちぎられていた。リンカーンにトウェイン、チャーチルディケンズ、そして山ほどの、アーサー・コナン・ドイルの書簡。そんなものまでが他といっしょくたになって床に落ちていた。どれもこれも台無しだった。

 

 かくして惨殺されたアダム・ディールは、「わたし」の義兄であった。そしてふたりにはさらなる共通項があった。「アダムと同じくこのわたしも、かつて贋作師だった」。

 もっとも贋作といっても、少なくとも「わたし」の場合、単に筆跡をなぞっただけのレプリカ職人とは訳が違う。「わたし」のそれは「創造」だった。「クオリティの高い贋作というのは、天賦の才の持ち主が、正真正銘の作家本人に匹敵するだけの知識を得てこそ、成り立つ。/……関係してくるのが、カリグラフィー・アート的なニュアンスや、史料を読み解く品格や、感情移入する技術」。いかにも書きそうというキャラクターとの整合性を満たし、時宜にも適い、それでいて史実の根底を覆すには至らないような、歴史的作家たちのそんな献辞を彼らの筆致で「創造」する。「難しい書体を美技で制したときの達成感」を知る「わたし」は一時、「名人界でも頂点に登りつめていたと思う」。だがあるときその事実が発覚したことで刑事裁判にかけられ、以後は足を洗い、現在は培った知識を生かしてオークション・ハウスのスタッフとして勤務している。

 アダムもまた贋作に手を染めていた、といっても、「アダムは真似ていたが、それに対しわたしは、創造していた。アダムは職人だったけれど、わたしは芸術家だった」。

 互いに似て非なるもの、愛するミーガンの兄だとしても、アダムは所詮、「わたし」にとって軽蔑の対象を超えなかった。

 

 余はいかにして贋作師となりしか、本書内、白眉と唸らされる箇所がある。

 弁護士をしていた裕福な父の蔵書やコレクションに、美術に卓越した母による手ほどきが組み合わさることで、「わたし」はそこに天職を見た。

 わけても「教師であり後見人にして、慰めてくれる人」としての母の存在は格別だった。小学校で左利きの矯正をいかに促されても、身を挺して息子を守った。絵画への興味が芽生えれば、息子を美術館に連れて行ってレクチャーを施した。そうして彼は12歳の頃には既に母のカリグラフィーの腕前を追い抜いてしまった。その後、ガンによって夭逝した彼女の欠落を埋めるように、「わたし」は父のライブラリーを己がうちに取り込んでいった。

 小説のいちいちを書き手の個人的な体験と結びつけて読むことの愚かしさは承知しつつも、このあたりから漂う甘美な文体にはどうにも稀覯本業界に身を置いていたという筆者のパーソナルな履歴と軌を一にするものがある、と考えずにはいられない。

 

 このくだり、傑出している、別の言い方をすれば、浮いている。

 

 憶測の真否はともかくも、かくなる英才教育が「わたし」を贋作の世界の頂点へと導いた。

 対してアダムにはおそらくはこうしたこうした原体験がなかった。言い換えれば、同じ両親のもとで育まれた「わたし」が愛してやまないミーガンもこうした初期衝動をついぞ知らなかった。現実を見れば兄弟なんて人それぞれ、しかしこの小説世界において「わたし」を「わたし」たらしめるレシピが明かされたからには、そのパートナーたるミーガンにも同様のレシピが設定されていなければならない、そしてそれはせいぜいが真似ることしかできないアダムと同一のものでなければならない。然らば、「創造」の味を知る「わたし」にはおよそ似つかわしい点を持たない、まるでその肋骨から作られたがごとく耐えがたきほどに退屈な人物像が、悲しいかな、スウィート・ハートにも割り振られていなければならない。

 実はこののち、「わたし」をも嫉妬させてやまない贋作師が登場する。だがしかし、こうしたスキルがいかにして養われたのかはついぞ触れられることはない。遍くフィクションに横たわるロジックとして、同様の能力を秘めたライバルとはすなわち、鏡合わせのもうひとりの自分であらねばならない。なぜならば、そこに一脈として通じるものを持たない、何か知らないけれどもとりあえず強大な敵とやらとの間になど、物語が生じようがないから。

 だからこそ、本書のクライマックスに至っても、それで? という以上の念が湧き出すこともない。

 

shutendaru.hatenablog.com

shutendaru.hatenablog.com

「親切なイラン人」

 

 24年ぶりにイランを旅した。

 イランを再訪する気になったことに深い意味はない。1990年に旅をしたイランと、現在のイランがどれほど変わったかに強い興味があったわけでも実はない。イランがどれほど変わったかではなく、僕自身のイランに対する見方が変わってしまったのだ。だからもう一度イランに行く気になった。……

 心に引っかかることがあった。

 それはイランのどこだったか正確には覚えていないのだが、バスの窓からちらりと見かけた女性の姿だ。イランはすべての女性がヘジャブを着用しなければならない。地方によって異なるが、その多くは黒いヘジャブだ。だが、僕が見かけた女性はカラフルなスカーフを被り、スカーフの前には金属の飾りがいくつもぶらさがっていた。まるでインドの西部に住む少数民族のような雰囲気であった。

 なぜ、そのような人がそこにいるのか、当時はまったく理解できなかった。……

 イランはペルシャ人の国だと単純に思いこんでいた僕に、それまで知らなかったイランの姿がじょじょに浮かび上がってきた。24年前のイラン旅行では、知るすべもなく、見ることもできなかったイランがまだまだ広がっている。

 

 筆者が行く先々で出会うのは、次から次へと現れる「親切なイラン人」。

 通常、世界各地において旅の華といえばタクシーのぼったくり。ことばも不十分で、土地勘もゼロと圧倒的な売り手市場において、迷い込んだカモにできることといえばひたすら泣き寝入ることだけ。

 ところがここイランでは一味違う。なんとドライバー・サイドが筆者の打診した金額を遠慮して、ディスカウントを申し出てきた、というのである。

 長距離バスに乗ろうとチケット売り場を探していれば、係員でもない通りがかりの青年が、自らその案内を買って出る。郊外のターミナルまで出向かなければ手に入らないことが分かれば、タクシーをチャーターするどころか、同伴を志願して、挙げ句にはその移動代金すらも払ってしまう。もちろんこの彼、オイルダラーのご子息などではない。

 バスを待っていても、日本人が珍しいのか度々写真を求められるは、代わる代わる話しかけられるはで、「このようにイランでは、ホスピタリティーのない街を探すほうが大変なのだ(と思う)」。

 

 ある街では、バスターミナルで「アナタ、ニッポンジン?」と声をかけられる。聞けば、かつてごく短期間だが高田馬場で仕事をしていた、という。例に漏れず、この「親切なイラン人」もホテルの手配に自ら率先して動いてくれる。案内された街一番のホテルはガイドブックによれば一泊122ドル、とても手が出ないと固辞するも、彼はフロントに乗り込んで交渉を重ね、なんと50ドルにまで減額することに成功する。

 このエピソードをイラン人の配偶者を持つ日本人女性に話すと、返して曰く、「その人はあなた方のホテル代を払わなかったのですか?」と。

 

 しばしば英語で話し込む。教育課程で叩き込まれたでもない彼らが、ホメイニ革命のロジックに則れば敵性言語ともいえる英語を使ってコミュニケーションを求めてくるのだ。

 概して政府に対して批判的な彼らはただし、オリエンタリズムのアプローチから自らを断罪しにかかる欧米に同調を示すこともない、さりとてISへの共感を表したりもしない。「僕がこれまで聞いてきた批判や不満のほとんどは、……イスラームそのものではなく、イスラームといいながらイスラームの理念と相容れない社会しかつくれない現体制への不満であるように感じられた」。

 他方で、あるイラン人は筆者に尋ねた。

「日本人は宗教を信じているのか?」

 結婚式は教会で挙げ、クリスマスやハロウィンやバレンタインともなればもはや本国顔負けのガラパゴス進化を遂げ、他方で葬儀となれば仏教スタイルを取り、初詣には神社を参拝する、そんな日常の一コマを取り上げると、彼は頷いて曰く、

「それは“ヒューマニティ”で生活が営まれているということだな。それはすばらしいことだよ」。

 

 単にフォトジェニックな建造物が見たければ、そんなものはネットにいくらでも転がっている。グリーク・ゴッド顔負けの彫りの深い佇まいを拝みたければ、何なら日本の街中でも会える。

 でもしかし、“ヒューマニティ”の様式は、実際に訪れることでしか分からない。

 

shutendaru.hatenablog.com

shutendaru.hatenablog.com

shutendaru.hatenablog.com

The Misfits

 

 山田うどんについて僕[えのきど]が最初に語りたいのは、首都圏郊外の街道沿いの光景だ。ほこりっぽい風に大安売りや商品キャンペーンの幟がはためいている。風でくるくる廻るサラ金の看板、ガソリンスタンド。スーツの量販店。誰も渡らない歩道橋。退屈といえば退屈だけど、心になじむ無個性な日常風景。無個性で匿名的だ。見ようによってはモダンアートの巨匠、エドワード・ホッパーの描いた孤独なアメリカにも似ている。が、ぜんぜんクールじゃない。もう、テンション下がるとしか言いようのない「僕の地元」。

 僕は100パー確実に、その光景のなかで自己形成したんだね。……僕にしてみたら山田うどんは、そういう日常のなかでじんわり日々を過ごしてないとホントの味がわからないようなものなんだね。……

 僕が山田うどんに似合うと思う感情は、少し後ろ向きのものなんだなぁ。どうしようもない退屈。こんなことしてていいのかぁという焦燥感。寂しさや疲労感。だって、かかしのマーク見てほっとするんだよ。うどんがあったかくてうれしいなと思う。カツ丼セットがっついて、色んな後ろ向きの感情がとりあえず空腹感だったことにできる。あー、食った、ま、だいじょうぶかな、と店を出られる。

 

 山田うどんとは、すなわちアンディ・ウォーホルだった。

 いや、一読者として少し奇をてらったことが書いてみたくなったわけではない。正真正銘、本書内できちんと言質は取れている。

「増殖した店舗こそ山田の本質じゃないか? 本店&本社の所在する所沢をオリジナルと発想することこそ非・山田的である。それはポップアートや写真等、複製芸術の論争に似ている。オリジナルプリントが本質なのではない。印刷され、増殖し、メディア化したものこそが本質なのだ。だからアンディ・ウォーホルはスープの缶詰を作品にしたのだ、と」。

 彼の代表作に『マリリン二連画Marilyn Diptych』なるものがある。

 周知の通り、このワークはシルクスクリーンなる複製技法によって制作された。元となったのは彼女のパブリシティとして公開されていた一枚の写真、しかし見ての通り、かすれやゆがみを孕まずにいられないこのテクニックは、ウォーホルというキュレーターを媒介することで、現代的な用語法におけるコピー・アンド・ペーストとはまるで似つかない何かを暴露することに成功した。セックス・アイコンとしてのパブリック・イメージが一見、万人に共有されているかに思われつつも、誰にとってもマリリンは同じ現れ方をしているわけではない、もちろんひとりの人間においてさえもその像は絶えず移り行く。

 期せずして、山田はこの現象を複製する。

 所沢のセントラル・キッチンから関東のロードサイドへとばらまかれるうどんやそばは、しかし各店舗において提供されるそれは決して同じ現れ方をしない。コロッケやチャーハンのラインはほぼ無人、カレーはパイプラインを経由して容器へと流し込まれ、それなのにとある店の便所の落書きが言うことには「ここの山田うどん美味しくない」。それはまるで同じ写真を使っているのに、このマリリン、ブサい、エロくないと愚痴られるのに果てしなく似て、ウォーホルと完全に同質の鑑賞体験が美術館チケットにも満たない金額で味わえる。

 

「謎を解くために、厨房に潜入したい。/……解決策はひとつ。山田で働けばいい」。

 かくして筆者(北尾)は店舗での一日研修に出向き、それどころか実際に調理すらしてしまう。その手によって作られたかき揚げや野菜炒めは、ごく平然と客へと供された。パックされているものを温めてるだけなんでしょ、というわけでも必ずしもないらしい。けたたましいタイマーがパテやバンズの焼き上がりをコントロールする、フレンチポテトの温度管理はマシン任せ、なんて『モダン・タイムス』は山田の厨房では起きない。筆者がチャーハン二皿を仕上げるのと同じ時間で手慣れたスタッフは三皿を仕立てる、この時間差はクオリティにも反映されるだろうし、それ以前に会社サイドにしてみればコストにそのまま跳ね返る。しかしそれを甘受する、金太郎飴なロードサイドにあって、巨大チェーンになり切れない「地方豪族」を引き受ける。

「山田の厨房は、料理人の能力がモノを言う個人経営店とはまるで違う。だけど、マニュアルに沿ってすべてが行われる機械的な空間でもない。その中間だ。ぼくたちは山田に入るとホッとする。味もそうだけど、醸し出される雰囲気に和み、接客マニュアルのなさやフロア担当のおばちゃんたちの笑顔こそがその要因だと考えてきた。だけども、見えていなかった厨房内にも、同じくホッとさせる雰囲気がある」。

 それは創業者にインスピレーションを与えたアメリカのダイナーにも重なる。ハンバーガーにホットドッグにチキングリル、とどこもかしこも判で押したようなメニューで、味といえば結局のところ、卓上に置かれたハインツのケチャップとマスタードによって司られているような何かでしかない。それなのに、ローカリティを洗い流したモータリゼーションの均質な路上にあってすら、それぞれの情景を誘わずにはいない。ダイナーが出てくる映画として私が連想するのは、例えば『ミリオンダラー・ベイビー』であり、『ムーンライト』であり、『パルプ・フィクション』であり、『世界にひとつのプレイブック』であり、そのことごとくがダイナーという記号性ゆえに舞台装置として割り振られながらも、各々が期せずして別の物語を帯びてしまう。

 ラジオで山田を話してみれば、リスナーの眠れる記憶が呼び覚まされずにはいない。個人店舗ではどうにも超えられない「退屈」をめぐる共感が、郊外の「地方豪族」ゆえにこそ引き起こされる。

 そう、だからやっぱり、山田うどんアンディ・ウォーホルだった。

 

shutendaru.hatenablog.com

shutendaru.hatenablog.com

shutendaru.hatenablog.com

また一枚脱ぎ捨てる旅から旅

 

「ストリップの帝王と呼ばれる人がいるんですけど、知ってますか?」

 とある踊り子からそのようなことを言われたのは、今から八年ほど前のことだ。ストリップの帝王なる不思議な肩書に惹かれた私は、ぜひとも会ってみたいと思った。

 帝王の名前は瀧口義弘、長野県諏訪市上諏訪温泉にある諏訪フランス座という名のストリップ劇場を経営しているという。帝王という呼称からして、東京や名古屋、大阪といった大都市の劇場をいくつも切り盛りしているのか思ったが、意外なことに長野県の諏訪という歓楽街のイメージが無い街にいるという。それが、この人物の得体の知れなさを物語っているような気がして、興味が湧いた。

 

 このテキストの書き出しを飾るのは、瀧口がストリップの世界で一躍その勇名を馳せるところとなったという、ヤクザとのとあるエピソード。指名手配の時効を逃げ切っただの、ラスベガスで数千万を溶かしただのといった過去をあたかも武勇伝であるかのごとくに披瀝していく、というあり方そのものがこの「帝王」が古き時代の遺物であることを無二の仕方で証明する。

「帝王」がその座にまでのし上がったのも、結局のところ、過剰サービス競争の産物にすぎなかった。最大300人を抱えたという「タレント」の「コース切り」にあたって、「満遍なく仕事を振ってあげなくてはいけません。誰もが生活のためにやっているわけですから」という弁には相応の説得力があるし、どぶ板丸出しの宣伝戦略の土臭さにも非常なリアリティはある。しかし、実際に瀧口が具現した集客術の根幹といえば、いわゆる「本番まな板ショー」や「ピンク部屋」、つまりは「芸ではなくセックスを売り物とした」その果実に過ぎなかった。

 もっともそんなことを誰よりも知悉しているのは、他ならぬ「帝王」自身だった。曰く、

「誰が踊り子たちを求めたんですか。お客さんであり、全国の劇場ですよ。彼女たちを乗せれば、それだけお客さんが入ったわけなんです。私も彼女たちのお金でだいぶ稼がせてもらいました。お互いが望んだ状況だったんじゃないでしょうか」。

 

 朝霞、立川、高崎――

 瀧口が経営を委ねられ、立て直した劇場の立地にはことごとくある共通点があった。

 すなわち、軍隊である。

 朝霞では陸軍士官学校がそのまま米軍のキャンプドレイクへと転用された。立川でも陸軍飛行場がそのまま米軍のフィンカムへとコンバートされた。高崎にも明治時代に陸軍十五連隊が置かれ、周辺は色町として大いに栄えた。瀧口のキャリアの出発点である木更津も、戦前には海軍が拠点を構え、その後米軍が駐留、そして今も陸自の駐屯地として機能している。

 男をかき集めて住まわせる、必然彼らは女を求めずにはいない。ある時代においてその受け皿を担ったのが、ストリッパーであり、瀧口だった。

 とある劇場の楽屋にて、タガログ語で記された落書きを目にする。

 ハポン プータンイナモ

 その意味は、「日本人の馬鹿野郎」。

 

 それにしても、である。

 大風呂敷は多分に含まれてはいるのだろうが、瀧口の懐に相当の金が流れ込んできたことそれ自体に疑いの余地はない。堅気ではまず稼げるはずもない資産を手に、早々に足を洗って、悠々自適の暮らしを設計することもできただろう。なにせ元は叩き上げの敏腕銀行員である。

 ところが、「帝王」とかつて謳われたその男が、取材時には安アパートに独居住まい、辛うじて生活保護で長らえていた。

 当人に言わせれば、それらはすべてギャンブルで使い果たした。その自供を容易に鵜呑みにしようとは思わない、自称最盛期に月18000万、しかもほとんどが非課税などという収入をたかが博打だけでそうそう溶かし切れるはずはない。しかし何かしらにせよ、瀧口はそのあぶく銭を吐き出さずにはいられなかった。

 

 そして「帝王」は、老境に差しかかってなお、山間の寂れた温泉街のストリップ小屋に居場所を求めずにはいられなかった。周縁から密やかに性のニーズを供給し続けたアウトサイダーの居場所はそこにしかなかった。ポルノ動画だろうが、デリヘルだろうが、セックスがインスタントに手に入る時代から完全に取り残されたその場所にしか、瀧口は住まうことができなかった。

「ストリップ劇場は、間違いなく社会のセーフティーネットの役割を果たしている」。

 その小屋を閉じるにあたって、ある客との逸話を明かす。その男は精密機器メーカーの開発者、「自殺場所を探していたら、ストリップ劇場が目に入ってきて、息抜きを兼ねて入ってみることにしたと。私とテケツ[チケット窓口]で話し、その後に見た風香のステージにえらく感動して、生きる気力を取り戻して、劇場に通ってくるようになったのだそうです」。

 その証拠があった。

「諏訪フランス座の場内には、巨大な踊り子のポスターが貼ってある。サイズはA0でその大きさに驚き、客の誰もが一度は目をやる。そのポスターを作成しているのが、自殺場所を探していたというサラリーマンである」。

 

「帝王は帝王でも人の為に生きた帝王だった」。

 ご立派に過ぎるこのまとめ方には少なからぬ危うさを覚えぬことはない。しかし、この言には一片の真実を認めずにはいられない。

 

shutendaru.hatenablog.com

shutendaru.hatenablog.com

shutendaru.hatenablog.com

君たちはどう生きるか

 

 おれは三人の人間に、“三十五歳で死ぬ”ことを予言されていた。

 その一人は医者だ。……

「さすがに年が若いから、回復も早いんだろうね。ただ、これは言っときますがね。あと十年、この調子で飲み続けたら、もうまちがいない。百パーセント、肝硬変だ。死にますよ、あなた」……

 もうひとりはプロの占い師だった。……

「この先三、四年は良い運が続く。才能が芽を吹き、努力がむくわれる。ただ、金運はあまりついてこない。女運もよくない。命取りになるくらいの大失恋がある。三十五歳にかなりの凶相が出ている。喉、気管支、胃、肝臓、このあたりの病いに気をつけなさい」……

 三人目は、俺の昔の友人、天童寺だ。天童寺不二雄という。十八、九で知り合って、よくいっしょに無頼をやった。この男は横紙破りの悪童だったが、同時に天才詩人でもあった。本人は何を書き残すでもなかったが、……彼の生そのものが、いっさいの感傷やレトリックを剥落させた、硬質の「詩」であるような男なのだった。……

 そいつが若い頃、おれに言ったのだ。……

「おまえは三十五までだな。三十五まで」

 

 果たして「おれ」こと小島容は、積年の飲酒が祟り、アルコール中毒に蝕まれていた。昼夜を問わず、連続して酒をあおらずにはいられない。固形物の食事はもはや身体が受け付けない。大便の白色が意味するところは胆汁の枯渇。対してコーラ色の尿は「化学薬品を思わせる、きついいやな臭い」を放っていた。鏡を見れば、頬はやせこけ、皮膚は土気色、白目は黄疸に染まる。

 かくして運命の三十五歳、「おれ」の入院生活がはじまる。

 

「おれ」が病床で見た夢の一編。

 とある寺を訪れた「おれ」は、同行した不二雄から「香腺液」の伝説を聞かされる。曰く、山頂に横たわる巨大なアメフラシのような生物から分泌されるその「歓びの液体」は、世界中の冒険家たちが恋焦がれ追い求めた幻の逸品。「香腺液」の結晶を不二雄は湧き水に投げ入れると、「おれ」にそれを飲むように促す。酒のようで酒でない、「全身を多幸感が満たした。そのくせ、飲み疲れて飽きるというようなことはまったくな」くて、「さわやかで軽い飲み口/……胃の中に小さな太陽が生まれて、そこから体の内部をあたたかく照らしているような、そんな酔い」を「おれ」にもたらさずにはいない。

「おれ」が求めていたのは、「香腺液」だったのか、不二雄だったのか。

 

 読むのやめようかな、と途中、少しばかり辟易を誘われる箇所がある。

 ジャン・ジュネ泥棒日記』以来の無頼漢文学系譜のエピゴーネン描写に、チューリッヒ・ダダの中心人物だというフーゴー・バルとやらを引用しての、きちんとその手の知識踏まえて書いてますからね、という小心丸出しの言い訳がましいしゃらくささ。

 

 そうした何もかもをひとまずかっこに入れてしまえば、あとはいたいけなまでの人恋しさだけが残る。

 そもそもの飲酒量が爆発的に増えるきっかけからして、「『タイムカード』という守護神がおれの生活から消えてしまった」ことだった。それまでは曲がりなりにも保たれていた「九時に出社して夕方から飲み始める」というリズムが、なまじ物書きとしてそこそこの成功を収め、独立事務所を構え、打ち合わせなどの些事を他人に委ねるようになったがために完全に崩壊。

「独りで放っておかれることを望んだが、そうされればされたで世界に対して悪態をつく」、その最高の相棒はハード・ドラッグ、アルコールだった。

 

 そんな「おれ」に二本の蜘蛛の糸が垂らされる。

 その一人は、主治医の赤河だった。1987年のアメリカにおける統計では、「アルコールに関連した死亡、つまり肝硬変、自動車事故、自殺、溺死、その他を合わせた総数は九万八〇〇〇人……年間の薬物死が約三万人、不法薬物死が四二〇〇人だから、ドラッグとアルコールの『悪魔度』の違いは歴然としている」といったデータに通じ、それらを独学で正しく読み解き、治療薬などもきちんと調べ上げている「おれ」の知識に赤河は訳もなくついてくる、つまり「おれ」は不二雄の死後、ようやく会話の成立する同朋を見つけることに成功する。

 そんな盟友から高濃度エチルを片手に説得を受ける。「患者は自分で自分を助けるしかないんだ。……助かろうとする意志をもって、人間が前へ進んでくれればそれでいいんだ」。

 そしてもう一人は天童寺さやか、亡き不二雄の妹だった。

 彼女が「おれ」に告げたのは、アルコールに呪われた一族の真相だった。そうして「おれ」は知るだろう、不二雄は「酒を飲むことで、父親に会っていたのだ。飲んで正体をなくすのは、失われた家に戻ること、父親を奪い返すことだったのだ。あげくの果てに、酔って車にはねられた」。詩を一つとして書かない彼は、にもかかわらず「詩人」であり続けた、なぜならば、酒の麻酔を借りることで現実ならざる場所をさまよい続けていたのだから。

 彼らの死にざまを見送ることを余儀なくされた彼女は、「死者や闇の呪縛にとらわれかけては引きちぎり、とらわれかけては引きちぎり、そうして……自分のために自分を生きる」。

 

「“依存”ってのはね、つまりは人間そのもののことでもあるんだ。……依存のことを考えるのなら、根っこは“人間がこの世に生まれてくる”、そのことにまでかかっているんだ」。

 アルコール依存”からの脱却を果たす、それはつまり、別の“依存”できる誰かを見つけることに他ならない。

「自分のために自分を生きる」、それでいい。それをなし得る者だけが、他の誰かに差し延べるべき手を持つことができる。

 

shutendaru.hatenablog.com

shutendaru.hatenablog.com

shutendaru.hatenablog.com