黄金狂時代

 

 メニューを見れば、ランチはカレーとナンのセットで800円なり。マトンかチキンかシーフードか、10種類くらいから選べるようになっている。カレーを2つ付ければ950円だ。(中略)

 ネパール人経営のインド料理店に行くと、だいたいこのスタイルのメニューが、まるでテンプレートのように出てくるのはナゼか。カレー屋経営をプロデュースするコンサルタントのような存在がいるのだろうか、と思うほどの似通い方なのだ。(中略)

 この手の「ネパール人経営のインド料理店」が、いまや日本全国、津々浦々に大増殖している。日本人のエスニックファンの間では「インネパ」とも呼ばれるようになり、いまや外食のひとつのジャンルを形成しているとさえいえるのかもしれない。これだけ拡大したのは、どうしてなのだろう。

 そもそも、ネパール人はなぜ、インド料理をつくっているのか。インドはネパールのすぐ南に隣接する大国だが、両国の食文化はずいぶんと違う。ネパール料理ではなく、あえてインドカレーとナンにこだわる理由もわからない。そして彼らはどうして日本に来て、どんな暮らしをしているのか……。

 あれもこれも気になるのである。

 

「インネパ」の謎を訪ねて歩くこの旅の終着点は、バグルンだった。話を聞いて回った人物の多くがネパール中部のこのエリアの出身者だったことから、悪路をかき分けて果たしてたどり着いた約束のその場所は、「昔話のような山村」だった。「自分たちの食べるぶんだけ野菜や米をつくって家畜を飼い、村全体で助け合ってなんとか生きてきた」そんな村の暮らしは、しかしもうそう長続きはしない。その光景に筆者は驚愕と当惑を隠せない、「歩いていて出会う人々は、女性と老人、子供ばかりなのである」。かつてならば半ば自給自足の農業経済を担っていただろう若年壮年の男性たちは、皆こぞって外国へと出稼ぎに向かう。

「みんなiPhone14が欲しいんですよ」。

 資本主義のポンプ作用の必然がここでも具現する。農村から都市へ、そしてその道は海をまたいでひたすら延びる――賃金の高低によって規定されるこの過疎化運動が中近東の小国を呑み込んで既に久しい。

 各国からの出稼ぎによって得られた金は、ネパールにも少なからず仕送りとして流れ込んではくる。1人当たりの月額GDP100ドルの国内では到底望めないほどのゲインではある。しかし、もはや国策とすら呼んで差し支えないこのマネーが、自国の経済発展に活用されることはほとんどない。なにせその原資が流出した労働力に由来している以上、構造的に人手不足が宿命づけられたこの国で投資先としての新しい産業が育つ見通しなど得ようがない。唯一、「土地への投資はさかんなようで、カトマンズやポカラでは地価が急激に騰がっている。海外からの送金を元手に土地を買い、利回りで稼ぐ人が増えているという。銀行も『土地への投資なら』とお金を貸すのだそうだ。結果、都市部の地価が高騰していく。どこかで聞いたような話だった」。

 この活動がもたらす外部不経済は、これだけにとどまらない。

 祖父母や親類に任せて両親は国外へ出稼ぎ、そうしてできあがった金だけはある、金しかない、愛情を知らない子供たちは、しばしば非行へと走る。愛され方を知らない、つまり自らの愛し方を知らない彼らは、なまじ購買力があるだけに、ドラッグやアルコールに向かうことができてしまう。

 グローバライゼーションのひずみ。あまりに陳腐な言い回しには違いない、しかし本書の光景を説明するに、これほどにふさわしいフレーズを他に見つけることができない。

 

 実はそのことを最も端的に表しているのが、「インネパ」のあのテンプレメニューなのかもしれない。

 モータリゼーションがもたらしたあまりに皮肉な世界がある。過去とは比較にならぬほどの移動の自由を確保した人々が、未知のローカルを訪れて、その土地でしか味わうことのできない食べ物を口にする、そんな旅行の醍醐味は、ところがリアルでは紀行文の中にしか転がっていなかった。何が出てくるか分からない、当たり外れも分からない、そんなギャンブルに打って出るほど、ツーリストたちは勇敢ではなかった。彼らは旅先においてすら、ロードサイドのマクドナルドやケンタッキーを求めずにはいられなかった、それは単に津々浦々にあっても均質性が保証されているというだけの理由で。たとえローカルなレストランに入るにしても、何かしらのお墨付き、例えばタイヤ・メーカーの発行するグルメガイド、がなければ彼らは近寄ろうとすらしない。

 おそらくはこれと類似する現象が「インネパ」でも起きた。どの扉をくぐってもだいたい同じ味が出てくるという経験は、本書が明らかにするような作り手側の文脈のみには必ずしも由来しない。すべて需要は供給に先立つ、あくまで消費者サイドがそのお約束を選好した結果の反映に他ならない。すべて人口に膾炙するとはコピペ化すること、昭和の町中華におけるテンプレ・ラーメン、テンプレ・餃子、テンプレ・チャーハンに限りなく似て、まるでチェーン、フランチャイズのようだからこそ、「インネパ」は一定の集客を実現している。甘ったるいナンに甘ったるいソース、ギトギトに滲んだ油――祖国の味とは似ても似つかぬそのカレーとやらを厨房の人々がうまいと思っているかなど、悲しいほどに誰も問うてなどくれない。糖質、脂質というエネルギー源に設定された報酬系インセンティヴに消費者たちは現に誘導されて「インネパ」を目指す、そのニーズを満たすためにはむしろ規格品でなければならないのである、そこにひねりはいらない。吉野家だろうが松屋だろうがすき家だろうが、牛丼チェーンに入ればだいたい相場通りの味がするのと全く同じ仕方で――ブラインド・テストによる限り、こだわりをしばしば口にする消費者たちがそれぞれの特性を判別することは決してない――、どこの「インネパ」を訪ねようとも、予め分かり切った味がする、味しかしない、この工業製品性を獲得できたがゆえこそ今日まで彼らは生き残ることができている。

 

 まるで『モダン・タイムス』を地で行くような「インネパ」の光景を筆者は拾い集める。

 疎外と呼ぶことにもはやいかなるためらいを覚える必要もないだろうその歪みは、まず何よりも子どもたちを直撃していた。「この国には稼ぎに来た、豊かになりに来たのだという強烈な意識が、かえって子供たちの心をさみしく貧しいものにしてしまってい」た。彼らの中には、「自分の将来が明るいとは思えない。人生をあきらめている。そう話す子供たちもい」る。

 コミュニケーションの不全をコミュニケーションで癒す、そんな絶望の淵にあった彼らを救い出したのが、例えば夜間中学だった。その卒業生のひとりは、教職員たちが単に言語や科目だけではなく、「日本の常識やライフスタイル、人生そのものを教えてくれた」ことを述懐する。そうして日本で人と携わるためのスキルを身につけた彼は、今や複数店舗のオーナーを務めている、それも「既存のテンプレ的『インネパ』ではなく、日本人の気持ちを取り入れ、大きく発展させた店」の。その差別化を可能にしたのは、顧客たちとの会話だった。夜間学校が、コミュニケーションが、彼をここまで後押しした。

 コンビニのフランチャイズが現に発生と消滅を日々繰り返しているように、規格品を提供できるということは、必ずしも経済的成功を保証しない。あるネパール人コンサルタントが証言することには、「うまくいっている店は地域の日本人としっかりつながっているんです」。フラット化する社会にあってフラット化しないことこそが彼らに生存戦略を担保する。幼い子どもを抱える筆者の知人女性は証言する。「子供が泣いても怒らないし、話を聞いてくれる。ほっとするんです。だからママ友たちでときどき子づれでネパール人の店に行くんです。親同士が話してるときは子供の面倒を見てくれたりするし」。そこでは、落ち着きのなさがデフォルトの子どもたちがサイゼリヤにおけるようにつまみ出されることは決してない、「店主やコックの子供たちだって店内で遊んでいたり宿題をやってたりする(中略)おおらかにしてテキトーなアジアの空気感」が漂う。

 コミュニケーションなき世界の中でコミュニケーションを通じて新たな世界を切り拓く、ファストフード的であってファストフード的でない、そんな未来の隘路が「インネパ」にはある。

 

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このゴミは収集できません

 

「他人に捨てられたんじゃなく、私に捨てられたんだ」。

 この短編集をめくっていく中で、序盤から妙に引っかかるモチーフがあった。

「壁」において主人公が暮らす住まいの裏路地は、「ぎょっとするほど散らかっていた。……彼女は中に弁当のスチレン容器や鶏や魚の骨や卵の殻や米飯やパンやひとかたまりになった料理や釘や服やレンガやシャベルやカセットテープやCDやちりれんげやガラス瓶や枕や靴やタイヤや雑誌や新聞やゴミや蠅を目にした」。「男の子のように黒い」においても、「蘇愛は鞄をひっくり返して教科書を古い新聞紙の上に落とすと、別の新聞紙の束を上に乗せた。歴史の教科書、マレー語の教科書、数学の教科書はすっかり見えなくなった。明日。明後日。しあさって。もっとたくさん、たくさんの古新聞や古雑誌が届いて、こんな教科書を埋めてしまって、もう誰も蘇愛の本を見ることはなくなる」。夫に先立たれた「箱」の主人公がひとり暮らす住居兼店舗に漂うのは「干し草のような香り」、その出どころである木箱の中身の「黒い物体」が何なのかは彼女にもよく分からない。知人が差し入れてくれる品物も「冷蔵庫に入れたまま溜まってゆく一方で……からからに乾いたトマトや大根、白菜や豆腐がぎっしり詰まっていた」。

 さらに露骨なのが、「夏のつむじ風」である。ジェットコースターから降りてきた夫とふたりの子どもから主人公である「彼女は吐瀉物でいっぱいの袋を3つ受け取ったが、気持ち悪く思わないわけではなかった」。原文のニュアンスにあたらぬ者が翻訳についてどうこう述べることの無意味さは知りつつも、そんな紙袋を押しつけられているというのに、この人物は気持ち悪いと言い切らない。いやたぶん、わざわざことばにせずとも本来ならば言外にその不快感は自ずと読み手に想起されているはずなのである。しかしこのテキストにおいては「気持ち悪く思わないわけではなかった」という表現が選ばれる。

 同工異曲の必然か、登場人物のことごとくがこうして何かしらの仕方でいわばプチ・ゴミ屋敷の住人を構成する。さりとて、「箱」はともかくも、そのこと自体がメイン・テーマを構成しているようにも見えない。過剰なまでの自己主張の陰影を帯びた小道具としてのこれらが、果たして何を示唆しているのか、分からないといえば分からない。セルフ・ネグレクトの象徴といえばその通りで、でもそれ以上の何かともそれ未満の何かとも断言できず、とにかくやけに引っかかる。

 

 その正体の一端を解く鍵は、表題作の「Aminah」にあった。

 ある面でこの短編は、これらのゴミのモチーフを反転させる。つまり、ヒロインは溜め込むどころか、何もかもを文字通りに脱ぎ捨ててしまうのだから。

 そもそもアミナAminahという名は「ひたむきな忠実を意味している。この名を持つ者はアッラーに仕えるべきだ」。よりにもよってそんな数奇な名を与えられた彼女が改宗を申請し、そして却下され、そして夢遊病になった。マレーシアの制度により矯正施設に送られた彼女は、「目覚めている間は、いつも服をまとっており、時にひそかにすすり泣き、時に平静に話をした。ただ夢遊が始まると、一糸まとわぬ姿で中庭をふらつくのだった」。彼女は衣服を脱ぎ捨てる、彼女はイスラームを脱ぎ捨てる、「体内にムスリムの血が流れていれば、死んでもムスリムなのです」、そんな陋習を脱ぎ捨てる。

 しかし、「Aminah」は明らかに自由の賛歌を意味していない。かといって、このマルチ・ルーツなマレーシアのコンテクストを華語で綴っていく筆者が、原理主義的なこのシステムを支持しているようにも決して読めない。夢遊病者の痛々しい全裸は、もはや動物への退化を示唆するものとすら映る。だとすれば、ゴミこそが人を人たらしめていることになる。

 捨て去られるべきものとして一方では描かれているはずのゴミが、それにもかかわらず、現に捨てられぬままに場を占め続けている、そのあわいを読者に向けて投げ出す。「最初はまだ言葉がない。聞くことのできない叫びと悲鳴があるだけ」(「小さな町の三月」)、そんなあわいを筆者はゴミに仮託する。

 

 このゴミが暗喩する性格は、あるいは文学という営みそのものなのかもしれない。

 あるいは筆者自身の意図としては単に、宗教によって人生を壊された女性像をアミナに投影しているだけなのかもしれない。こうした抑圧構造など、一秒でも早く葬り去られて忘れ去られて然るべき性質のものなのかもしれない。

 しかし皮肉にも、書かれた文字として残されてしまうことが、少なくともこうした制度があったことを紛れもなく裏づけてしまう。書かれることさえなければあるいは順当に葬り去ることができたかもしれない何かが、現に書かれてしまったことによって記録として残ってしまう。残さなくてもよかったはずのものが残ってしまう、それはまさしく筆者が本書全体を通じて刻み続けたゴミの性質とオーバーラップしてはいないだろうか。

 おそらくこれは筆者固有のコンテクストがそうさせているわけではない。文学が、いや記録媒体そのものが、そういう風にできている。ただし、歴史性を背景にした多言語国家としてのマレーシアだからこそ、ここまでの自覚的な展開が可能だったのかもしれない。

 

「徹底した忘却は私には耐えられない。私には説明できない。それで私たちは楽になるのか、それとももっと悲しむことになるのか」。

「風がパイナップルの葉とプルメリアの花を吹き抜けた」におけるこの自己解題に勝って、果たして誰が賀淑芳という書き手を巧みに要約できるだろう。

 

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Who Let the Dogs Out

 

『ファイターズの今後を考える ~ファイターズがめざすゴールはどこか~』

 タイトルはそのまま、前沢がここ数年抱えてきた葛藤を表していた。〔北海道日本ハム〕ファイターズは東京から北海道に移転して7年目のシーズンを迎えていた。白と青を基調にしたユニフォームも、その球団イメージも北の大地に根付きつつあった。前沢にはとてもこのままでいいとは思えなかった。……

 だが、その裏では人知れずジレンマも膨らんでいた。現場の選手やスタッフから悲鳴が聞こえてきたのは、移転してまもなくのことだった。

「このグラウンドではダイビングキャッチができない」

「この球場で3連戦をやると、身体がボロボロになる」

「バックヤードが狭すぎて、トレーナーの処置もままならない」……

 事業面でもジレンマはあった。……球団は毎年、球場使用料として約13億円を支払っていた。札幌ドーム側はファイターズが本拠地とすることで使用料とグッズや飲食店販売収入の一部などを合わせて年間およそ20億円の収入があり、その総額はファイターズの選手総年俸に迫るものであった。また顧客サービスのためのハードを改善しようにも、あらゆることにドーム側の許可がなければ実現しなかった。……

 それらすべての問題の根っこは、札幌ドームが借家であることだった。一見すればファイターズは理想の地を見つけたように映るのかもしれない。だが、自分たちがいるのは決して楽園ではなく、このままでは将来、危機的状況が訪れるはずだと前沢は考えていた。それを解決するために球団内にも秘して資料を作成していた。

 

 ある者は球団職員として、ある者は地方公務員として、またある者は新聞記者として、かつての野球少年たちが長じてそれぞれの持ち場でボールパークというアンビションを実現する。その群像劇の物語として、このフィールド・オブ・ドリームスはなるほど確かに美しい。

 しかし、単に職務という枠を超えたこうした麗しきストーリーは、おそらくどんな巨大インフラにだって転がっている。あの新国立競技場でさえも、1964年の東京の空は青かった、と証言してくれる関係者は山のように存在していることだろう。コンパクト五輪を打ち出して誘致にかかったはずが、いつの間にか明治神宮周辺の再開発のフラッグシップとしてあれよあれよと着工が既成事実化され、気づいてみれば建築費2500億円、おまけに年間維持費24億円を回収の目途もなく計上し続ける、負のレガシーとして今やすっかりおなじみの、あの新国立競技場でさえも、である。

 奇しくも札幌ドームにしても、2002年のサッカーワールドカップという祝祭ファシズムのその後で、他の自治体において四半世紀を経ようとする現在においてなおそうあるように、財政をシロアリのように食い潰す忌々しきゾンビとして横たわる、速やかな損切りのほかになすべき道筋を何ひとつ持ち得ないハコモノの典型のはずだった。

 ところが、プロ野球興行という瓢箪から駒が、なまじその窮地を救ってしまった。代償は、ファイターズの懐に収まっていて然るべき年間30億円強のマージンと、そしてプレイヤーの健康と、例えば無暗に広いファールゾーンがもたらす臨場感の喪失だった。

 あの金で何が買えたか。それらのソリューションが、新球場の建設だった。

 

 彼らそれぞれが内に秘めたアンビションをめぐる、プロジェクトXまがいの人間ドラマも結構なのだが、それだけで公共財は決して成立しない。

 お金儲けして何が悪いんですか。本書には抽象的な理想論はあっても、このボールパークをいかにして営んでいくか、という実益のヴィジョンがまるで見えてこないのである。

 売上高13000億円を誇る食肉メジャーの親会社ですらも、本書に従えば、設備投資に拠出する金額は年でせいぜい300億円なのだという。いかにその広告塔が四国上がりの問屋を業界最大手に押し出すに貢献してくれたにせよ、たかが野球という「虚業」のために、そんな本体から600億円の建設コストを引き出す、そのための説得力がテキストからは一向に窺い知ることができない。こうしたテーマは、「新株を発行するのか、金融機関から借り入れるのか、エクイティ・ファイナンスとデット・ファイナンス、二通りの資金調達について、それぞれプランを提示した。さらに国土交通省の外郭団体や大手広告代理店などから出資を取りつけてきた。それらの企業と共同出資会社をつくることで、本社の負担を抑える見通しを立てた」、たかがこの程度の記述で済まされていいような話なのだろうか。そしてそれは、関係者諸氏の高校野球経験なんてことよりも、エスコンフィールドを建築するにあたってはるかにウェイトの軽い話なのだろうか。

 どの産業においても、集客能力はつまるところ、半径数キロ、数百メートルの経済圏に生活する人口にほぼ比例する。札幌という「リトル東京」に隣接するアクセシビリティがあるにせよ、北広島市そのもののの規模といえば、人口6万弱、年間予算300億円弱でしかない。その自治体が、町の命運を賭けた大博打に乗り出すのである。果たしてその勝算をめぐる折衝は、当事者のひとりが休日に務める少年野球の監督としてのモットーに比して、何ら誘致に寄与するところもない、論じられるにも値しないテーマなのだろうか。「野球を観るためだけの球場ではなく、人が集まり繋がる場所を生み出したい。スタジアムを中心に街をつくりたい」。これくらいの大風呂敷は収益モデルも何もないJリーグでも広げられる。住民向けのプレゼンテーションで提示された青写真の壮麗さがすべてだというのならば、日本中の至るところが何かしらの競技施設やライブスペースで埋め尽くされているに違いない。

 

 こうしたいかにも「いい話」を求めてやまない層には、本書はいかにもたまらない一冊なのだろう。日々地上波テレビにかじりつく大谷ハラスメントの消費者層が欲しているのも、おそらくはこうしたカギ括弧つきの「いい話」なのだろう。現実逃避の具として誰しもが渇望しているアヘンが、汗と涙のいかにも映える「いい話」なのだろう。

 だからこそ、つい邪なことが頭をよぎらずにはいない。「いい話」でボールパークが建つのですか、「いい話」でボールパークが維持できるのですか、と。

 スタジアムの運命がアンビションの高低によって決せられることはない、すべては計算能力の高低に規定される。

 

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That’s Not Me

 

『ペット・サウンズ』が登場するまでは、ポップ・ミュージックというのはただ単にかっこよく愉しいものに――少なくとも僕の若い心にとってかっこよく愉しいものに――過ぎなかった。歌の中に何か意味が見いだせるかもしれないなんて、考えたこともなかった。

 そこに突如としてブライアン・ウィルソンが登場し、僕は彼と同じような周波数の上に立ったのだ。彼の若者としての憂愁や、確信が持てないつらさ(我々はそれをしっかり共有していた)は、その高い、淋しげな声を通して、歌詞を通して、そしてまたサブリミナルなレベルにおいてその精緻な音楽を通して、僕に語りかけてきた。ブライアンが語っているのは「自分は十代であることを好む人間である」ということだった。僕は子供であることを好んでいるティーンエージャーだった。僕らは二人とも、どこかよその場所に移ることを求めていた。僕がそのとき知らなかったのは、僕や、僕のような人間にとって、このアルバムは文字通りの生命維持装置であったというのに、『ペット・サウンズ』は一般には不満の声をもって迎えられたという事実だった。

 

「もしあなたがビートルズ・ファンに向かって、とりわけ若いビートルズ・ファンに向かって、ジョン・レノンポール・マッカートニーが当時ビーチ・ボーイズを手強いライバルだと見なしており、ブライアンに敬意を抱いており、彼の達成したことにインスパイアされてもいたんだと言っても、おそらく信じてはもらえまい」。

 おそらく、というか絶対に。

 ラブ・アンド・ピースやヒッピー、ニュー・エイジといった同時代性のことごとくを捉え、果てはダコタ・ハイツでの殉死をもって、ポップなるカルチャーにおいて可能な最高到達点を極めてしまったビートルズとは対照的に、ビーチ・ボーイズが現代において割り振られたポジションといえば、例えばBS民放の深夜帯を何となく埋める洋楽懐メロコンピレーション・アルバム枠。ニュース映像的な時代を象徴することはかなわずとも、各人各人のごくパーソナルなメモリーと深く結びついたBGMとして折にふれて聴かれ続ける、それもまた、ポップというモデルにおける立派な機能には違いない。

 しかし、所詮は時代文脈に固有の消費物でしかないと見なされていたこのバンドのアルバムが、当のポールによって「時代を画したレコード」との称賛を与えられ、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』にも深いインスピレーションをもたらしていたのだとしたら――

 

 そのアルバム、『ペット・サウンズ』誕生をめぐる画期からして、既に悲劇の匂いは立ち込めていた。

 人気絶頂のグループが西海岸サウンド――あまりに記号的な――を引っ提げて世界を回る、はずだった。しかし、「何かが折れてしまった」リーダーが、そのワールド・ツアーに出ることはかなわなかった。

 ブライアンは間もなくメンバーに向けて宣言する。ついてはここカリフォルニアに残り、「バンドのために新しい曲を書き、それをアレンジし、プロデュースすることに、自分は力を集中したいのだ。音楽のもっとも核心をなす作業に専念したい」、と。

 筆者はそのリリックのことごとくにブライアンの私小説を読み解かずにはいられない。そしてもちろん、己の姿を投影せずにはいられない。

「間違った時代に生まれた I Just Wasn't Made for These Times」は、仲間や家族に囲まれ愛され、それでもなお「彼の眼には何も映らなかった。彼はただ苦悩の中に沈み込んでいった」。周りの誰とも何かしらがずれている、そんな感傷的な「彼の心の中に僕らは存在していた」。

「神さましか知らない God Only Knows」が歌うのは、「愛とは、生命よりも価値のあるもの」だと言うメッセージ。「もし我々がすべてを奪い尽くすような愛に身を委ねたなら、その先それなしに生きていくのは不可能になってしまうことだろう。なのに、それだけのリスクに見合う報償が与えられるかどうか確証がないにもかかわらず、そこに身を委ねたいと我々は切に望むのである」。

「君の長い髪はどこに行ってしまったんだ? Where did your long hair go?」は、「ブライアンにとって……過ぎ去った時間への悔恨を意味している」。この曲に現れる理想化されたカリフォルニア・ガールは、「しかしやがてほとんど唐突に……『ガール』ではなくなってしまう。彼女は移動し続ける。彼女は既に移動してしまった。……彼女のあの『幸福な輝き』は既にどこかに消えてしまっている」。この詩の「彼女はもうどこかに去ってしまったのだということを、彼はまだ認識できていないらしい」。「彼」とはもちろん、歌の中で「彼女」を眼差す「彼」だし、ブライアンだし、そして何よりもそれを聴く「僕」でもある。

 

 本書において、「僕」の主観とブライアンをめぐる史実がないまぜにされていることなど、さして重要な事柄ではない。なぜならば、いかなる仕方で伝記が編まれ語り継がれようとも、リスナー各人がどれほど熱狂的に思いを寄せようとも、「間違った時代に生まれた」彼自身にしてみれば知ったことではないのだから。

 孤独の中から『ペット・サウンズ』は生まれ、孤独な者により聴き伝えられる。筆者が空回りを強めれば強めるほどに、それは必ずや『ペット・サウンズ』なる現象をあらわす。

「まもなく少年は知ることになる。自分はひとりぼっちではないのだ、と。そして世界は再びまわり始める」。そう、いつだってブライアンを置き去りにして。

 

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ベルサイユのばら

 

 ――こんな人は、知らない。

 舞台袖から現れた、ひとりのダンサー。(中略)

 疑いようもなく、男の肉体だ。ほかの男性ダンサーよりも小柄だが、首は太く、身を反らすと喉ぼとけがくっきりと浮き上がる。太腿もふくらはぎも、遠目に見ればしなやかな曲線を描いているが、オペラグラスを向ければごつごつとした筋肉が目立つ。その太腿の間の青いひし形もようは微かにふくらんで、自身の肉体的な性別をまざまざと証明している。ボックス席の乙女が、気づいてしまった自分を恥じて、そっと睫毛を伏せる程度には。

 それなのに。口元の艶やかな薔薇色の微笑みは女そのもの。腕の動きはなめらかで、ときおり、しなをつくるように手を客席に伸べる。柔らかく膝を落としたかと思うと、次の瞬間には床を蹴って飛翔する。指揮棒が、オーケストラが、客席が、はっと息を呑み、天を仰ぎ、世界が鼓動を止める。

 ――こんな自分は、知らない。(中略)

 もしそれが21世紀であれば。

 そのことばもまた、「尊い」「しんどい」「無理」「待って」と同じ、極度の感激をあらわすことばとして発されただろう。

 

 だが、ときは1912年だった。そして彼女は1891年生まれの21歳の女性ロモラ・ド・プルスキーだった。言霊が暴発する条件は揃っていた。万雷の喝采を受け、腕を翼のように天高くひろげ、白鳥が嘴を湖面に浸すように身をかがめる、その男とも女ともつかない異形のきらめきを、ただなんとか理解して安心したいという衝動に駆り立てられた彼女は、ロベルト・シューマンの愛の調べを胸にかき抱きながら、取り返しのつかない一言を世界に放った。

「結婚したい……!!

 

「女性の身体は美しい。男性の身体は醜い」。

 それまでのパリのバレエ・シーンといえば、エドガー・ドガの《踊り子》の世界そのものだった。舞台はすべてパトロンの物色のためだけに奉仕する、「こうして堕落の一途をたどっていった」世界が、ロシアより舞い降りたるバレエ団と、そのエトワールである「ひとりのダンサー」によって更新される。

 その「舞踊の神」の名をワツラフ・ニジンスキーという。

 特権階級限定のクローズドなど遠い昔、ライブを観たければ金でチケットを買えばいい、この近代自由主義経済下で、例えばフランツ・リストの超絶技巧が数多の女性客を失神へと誘っていたように、追っかけとでも呼ぶべき消費行動の原型など当時において既にそう珍しいものではなかった。

 舞台上の貴公子に「結婚したい……!!」と羨望の眼差しを注ぐ女性は――あるいは男性も――、他にだっていたかもしれない。しかし、このロモラのケースは少しばかり訳が違った。まず、このハンガリーのお嬢様の家柄には斜陽といえど名声があった。ほぼ未経験にもかかわらず、今ならば研修生とでも呼ばれる程度の立場を買える、なけなしとはいえ金があった。行動力と情念だけではどうにもならない、「プティ」とお近づきになるためだけにバレエ・リュスに忍び込める各種資本が彼女にはあった。

 もっとも肝心の彼は、南米への船旅の最中でさえも、ロモラに一瞥すらくれようとはしなかった。彼女は猜疑に駆られる、「そもそも彼は、他人全般に興味がないのかもしれない」と。「舞台の上では神。舞台を降りればコミュニケーション下手なマイペース男子」、それゆえにこそ放たれうる超然とした気品こそが、彼を彼たらしめているのかもしれない、と。

 そうして失意の淵にあった「まるで少年のよう」な彼女は、ところがある日、他人を介して彼の真意を知るところとなる。

「ロモラさん。ことばの問題で、ニジンスキーはあなたと直接お話ができません。でも彼は、こう伝えたいとわたしに頼んできたのです。

 あなたと結婚したい、と」。

 

 私は神がかりではない。私は愛である。私は神がかり状態の感情である。私は愛の神がかり状態である。私は神がかり状態になる人間だ。私は言いたいが、言えない。書きたいが、書けない。私は神がかり状態なら書ける。私は感情を伴った神がかり状態だ。そしてこの神がかり状態のことを理性という。全ての人間は理性を備えている。理性を失いたくない。だから、すべての人が感情の神がかり状態になることを望む。妻は粉薬のせいで神がかり状態にある。私は神によって神がかり状態にある。神は私が眠ることを望む。私は眠り、書く。私は座って、眠る。私は眠らない。書いているから。人は私がばかばかしいことを書いていると思うだろうが、私の書いていることには深い意味があると言わなくてはならない。私は分別のある人間だ――

 神がかりなの? 神がかりじゃないの? 眠るの? 眠らないの? あれ、この人、何語喋ってるのかな、ついに脳みそのネジが取れちゃったのかな、とでももしかしたら少しくらいご心配いただけたかもしれない。大丈夫、だって私は私ではないから。

 実は、この上記数行は『ニジンスキーの手記』からの引用によっている。現代においてなお彼の名が広く語り継がれる理由のひとつは、陰謀論あり、被害妄想あり、内攻あり、全能感ありのこうした狂気のフルコースにある。今日ならば例えば統合失調症とでも診断されるようなこれら典型的な症例が果たして何に由来するのかを決することはもちろんできない。第一次世界大戦をめぐる危機と恐怖が彼をそうさせたのかもしれない。明日をも知れぬ経済的な苦境が彼の神経を責め苛んだ結果なのかもしれない。しかし、ワツラフを引き裂いたその強力なトリガーのひとつが、バレエ・リュスのファウンダー、セルゲイ・ディアギレフによって引かれたことにもはや疑いの余地はない。

 本書が上梓されたのは20235月のこと、そしてその原型となったウェブ連載は2021年に記されたという。いかにも数奇な時宜を本書は得てしまった。ディアギレフとニジンスキー、プロデューサーと美少年の間にあった性加害関係を、ジャニー喜多川による国連作業部会曰く人類史上最悪規模の虐待行為と紐づけせずに読み解け、という方が今や無理筋なのである。

 ましてや本書のもうひとつの推しの舞台はタカラヅカ、その異形性についても、あるいは報道に触れずとも、誰しもが薄々ならず気づいていた。阪急の駅のプラットフォームにて、髪をきつく結ったうら若き女性が滑り込んでくるマルーン・カラーの車体に向かって直立不動からその後直線的に首を垂れる。よく言えば凛とした、ストレートに言えば寒気がする、その過剰に強迫的なしぐさを一目見れば、誰しもがそこに軍隊的な規律の臭気をかぎ分けずにはいられない。そして異形が異形なればこそ、彼女たちは他を圧倒するブランドを獲得できた。

 同性間ゆえにこそ放たれうる何かを無邪気にも推すことのできた時代があった、そんなノスタルジーの残照として、たぶん本書は読み換えられる。

 

 テキスト終盤、歴史の奇遇に思わず私の腰が浮く。明石照子に魅せられた老境のロモラが、日本語の家庭教師を依頼したのは、チューリッヒに留学していたひとりの精神分析学者だった。その名を河合隼雄という。彼女はある日、河合に向けて打ち明けた、とされる。

ニジンスキーは、ディアギレフとの同性愛関係を保つことによって踊り続けることができていたのではないかと思うんです。あのふたりの間にわたしが割り込んで結婚したせいで、彼は病におかされてしまったのでしょうか」。

 彼女がひときわ未来の伴侶に惹かれるようになったそのきっかけは、『薔薇の精』におけるヰタ・セクスアリスなその場面、「音楽が終盤に至るころ。ニンフが落としていったスカーフを拾った牧神は、いとおしそうにそのスカーフを抱き、岩の上に広げて置いた。そして、自分の身体をスカーフの上に横たわらせたかと思うと、両手をうつ伏せの腰の下にはさみ、ふいに全身をびくりと震わせ、身体を弓なりに逸らす」、この「明らかに性的な慰めの表現」だった。

 ロモラはこのシーンを単に聴衆のひとりとして眼差さなかった、彼女はこのエクスタシーの瞬間にニジンスキーという男根の所有者に明らかに同化していた、どうかしていた。「結婚したい……!!」その願望を果たすことは、つまり彼と性交渉を持つことだった、そして実際にふたりの女児を授かりもした。観客席の彼女が絶頂のその瞬間に思い描いていた未来は、しかし実際に訪れたとき、たちまちにして幻滅に変わる。「まるで少年のような」彼女は自らをニジンスキーに憑依させる、その限りにおいて彼を愛した。それは例えば三島由紀夫『夏子の冒険』に果てしなく重なって、愛される客体を担わされた瞬間に愛する主体への思いはすべて霧消する。やがて彼女がフレデリカ・デツェンチェを求め、さらに明石照子に「結婚したい……!!」を覚えたのは必然だった、そしてその夢から冷めてしまうことも。

 ここで河合の師事したC.G.ユンクのアニマ‐アニムスを引き合いに出すことはたぶん逸脱ではない、が、それは脇に置こう。さらに本書固有のロジックとして、ロモラの自裁した父への思いを原型に置いて、というエディプス・コンプレックスの再生産論は、たとえ本書の核をなすウェルメイドなトピックであったとしても、あえてここでは繰り返さない。

 ここで改めて確認しなければいけないのはひとつだけである、つまり、人間が人間を「推す」という消費行動が、あるいはすべての人間関係という営みが、結局のところ、具体的にも抽象的にも、性的搾取を媒介させることでしか成り立たない、というその退屈さについてだけである。バレエ・リュスを推すことが、ジャニーズを推すことが、タカラヅカを推すことが、今となっては果たして何を意味しているのか。

 

 ニジンスキーとロモラも暮らした第一次世界大戦下のオーストリア・ハンガリー帝国を舞台に描かれた未完の超大作、ロベルト・ムージル『特性のない男』の一節、ひとりの数学者が新聞記事のとある文句に打ちひしがれて、ただちにひとまずの休暇に入ることを決意する。彼を驚愕させたのは「天才的競走馬」というフレーズだった。

 ニジンスキー、ヌレイエフ、リファール、バランシン――

 こうしたワードにバレエ周辺とはまるで別の仕方で脊髄反射してしまうクラスターが、この世の中にはある。すなわち競馬である。何の因果かNorthern Dancerと名づけられた一頭の歴史的大種牡馬は、その連想からバレエにまつわる人物や用語にその命名の由来を持つ末裔を数多輩出した。

 カナダで生まれたその大傑作にNijinskyという名があてがわれたのは、もはや必然だった。

 そして19966月の府中の杜でその奇跡は起きた。遠くイギリスはエプソムにてNijinskyを父に持つ栗毛の「天才的競走馬」がキャリアわずか1戦にしてザ・ダービーを制してから1年、今度は父の父にNijinskyを、そして奇しくも母にBallet Queenを――さらにその父は劇場名Sadler's Wellsにちなむ――持つ「天才的競走馬」が、音速の末脚をもって歴代最短わずか3レース目にして日本ダービーを制した。途方もない才能と、その代償としての美しくもひどく脆い肉体のトレード・オフは、おそらくはその近親交配に起因していた。

 それから10年余りの時が流れ、私の前に新たな推しが現れた。このNijinskyの孫の再来は、ただし今度は植物の姿をまとって舞い降りた。2013年の晩秋にホームセンターの片隅で出会った見切り品のその苗は、杜撰な管理で痛めつけられ、いかにも弱々しく、ほとんど枯れかけとすら映った。でも。――こんなバラは、知らない。そうしてなぜかの一目惚れとともに私に買われていったその株は、耐病性や耐虫性、耐暑性にはひどく劣り、それにもかかわらず勇壮な枝ぶりと真紅の大輪と、さらには気品あふれるフレグランスをもって庭の王者として君臨し続けた。継続性なんていらない、瞬間最大風速さえあればいい、エクストリームなトレード・オフを内包したそのバラは、最愛のサラブレッドを果てしなくなぞっていた。

 美少女への擬人化をもって推しという名の大衆からの課金を獲得した『ウマ娘』とやらとは明白に違う。この気高きバラを前に、馬を前に、所詮ポルノを消費することしかできない人間とかいうクズコンテンツを経由させて貶める必要などひとつとしてない。フサイチコンコルドはパパメイアンに限りなく似て、パパメイアンはフサイチコンコルドに限りなく似ている。そして同様に、暴君のごときその佇まいに鮮烈な血の紅が差すニコロパガニーニオルフェーヴルに限りなく似ている。

「しなやかで……/猫のようで……/いたずらっぽくて……/キュートで……/羽根のように軽く……/鋼のように強く……」、こんなパワーワードのインフレーションでいかに塗り固めてみたところで、たかが人間である。幸福にも映像記録をひとつとして残さなかったワツラフ・ニジンスキーのバレエを仮に拝むことができたところで、私はそこに幻滅しか覚えない、なぜならたかが人間だから。ベッド上のニジンスキーに対してロモラはどこまでも不能だった、なぜならたかが人間だから。推しなんてどこにもいない、なぜならたかが人間だから。

 奇しくもニジンスキー大先生が、こう書き残していらっしゃられるではないか。

 私は人生が何であるかを知っている。生は「ちんぽ」ではない。「ちんぽ」は神ではない。神はたった一人の女と子どもをたくさん作る「ちんぽ」である。私はたった一人の女と子どもを作る男だ。私は29歳である。私は妻を愛している。子どもを作るためではなく、精神的に愛している。

 もちろん、妻ロモラにこの叫びが届くことはなかった。

 

 それでもなお、そんな世界を生きていく。

「すべての人間には、自分の人生を耐え抜くために、できる限り自身を整えるという大事な権利と義務があると思うの」。

 束の間のトランスとトリップのその引き換えに、今日も誰かが課金とともに誰かを生贄に差し出す残虐極まるその行為を推しという美辞麗句のオブラートとともに消費していく。「自分の人生を耐え抜くために」誰かが誰かを骨の髄まで貪り尽くす、人肉を食らうカーニヴァルとしての世界はこれからも続いていく。

 ああよかった、こんないかなる視線にも堪えないグロテスクな汚物の行列に並べるほど浅はかじゃなくて。

 

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